ひまわり畑を夢見るブログ

44歳の時、乳がんの診断。ステージ2。手術して抗がん剤とホルモン治療。仕事と治療の両立の生活記録を残します。

「人外魔境」小栗虫太郎

毎度毎度、河出文庫さんにはお世話になっています。この本の存在はずっと昔から知っていて、探検ものということで、私はなかなか読もうとしなかったんですよね。地図Loverの私の想像力の方が広がりすぎて、「魔境」が絞られてしまうのがなんだかさみしくて、手が出ないでいました。ジュールヴェルヌとかそういう感じかなあと思っていました。小栗虫太郎は洋書をよく読む人だったので、なにがしか、海外の探検文学の影響が入ってるのかなあと、遠くからいつもこの本を見守っていたのですが。



何ででしょうね、本に呼ばれて買ってしまいました。読んでしまいました。2センチ以上の厚さがあるかなりのボリュームの本ですが、独立した短編13編でできています。


海外の探検なのですが、すごいところに、ありえんようなところに行くんですよ。最初の2つの短編は主人公が違うけれど、3つ目からは、折竹という、アメリカの地理学会の雇われ探検家が主人公となって、北極から熱帯から砂漠、氷河から火山まで、どこへでも行きます。最初の話は「有尾人」で、大魔境「悪魔の尿溜」というところがアフリカのジャングルにあるという話です。この話はそのあとの折竹シリーズになっても出てきて、例えば死にかけの大型哺乳類が目指す土地としても書かれています。もう命がないと悟ったゴリラがそちらに向かう時に迷った探検隊を助けるという筋書きでした。


13話全部書くと長くなるので、ここでは取り上げられた土地だけ列挙していきましょう。
第2話「大暗黒」北アフリカの塩湖や「忘れられし人々」やアトランティス、砂漠の下に海が??色々込み込みで次から次に魅力的な地名が出てきてお腹いっぱい。スリル満点。
第3話「天母峰」作者が折竹から話を聞く形はここから始まる。南部チベットの高い峰の中にある天母生上の雲湖や、英雄の行く墓海を飛行機で超える冒険をもとに地上から攻める。氷河の中に入り込んだり(上を超えるんじゃなくて下を行く)、ユートピアを目指す。
第4話「太平洋漏水孔」文字通り太平洋の大渦で、漏斗状になっていて通れないけれど中に島がある。その渦を超えて帰ってきた日本の子供。海の魔境。水面下の島。
第5話「水棲人」南アメリカの探検。魔境「蕨の切り株」ダイヤの原石が出るところ。永世変わりゆく大迷路。蕨の切り株とは死人が生きる場所か?!
第6話「畸獣楽園」アフリカ。ちびの白馬。白い生き物が集う場所。片輪獣のみの台地。
第7話「火礁海」南海の大魔域「離魂の森」「人類ならぬ人間」の娘との冒険。スリランカ?
第8話「遊魂境」グリーンランド、実は大きな島じゃなかった。
第9話「第五類人猿」、化木人、アマゾンの秘境。「神にして狂う」河。中南米の冒険。インカ王の最後の王冠。
第10話「地軸二万哩」中央アジア、アフガニスタン、砂漠の下にある石油の湖が中央アジアから佐原までつながっているキンメリア大油層幻想。生きている氷河。
第11話「死の番卒」ジャマイカ、パナマ、アトラトの白金、秘密運河
第12話「伽羅絶境」安南、泰、ラオス、奏でる雷鳴
第13話「アメリカ鉄仮面」アラスカ方面、アリューシャン列島のカルデラの楽園。成層圏飛行。


キーワード並べるだけでもしんどくなるくらいいっぱいいろんなことが出てきました。小栗虫太郎は探検はおろかこれを書いている時には海外にも出たことがない人です。これ、全部空想で書いてるんです。しかも戦中?戦前?1939年からぽつぽつ書き続けて、1940年くらいから連載になったそうです(もちろん新青年です)。外国の書物を読んで空想を膨らませたのでしょう。膨らませすぎですよ!!ジャングルでの人間の疲弊や、氷河の本当の寒さ、砂漠の絶望、空からののたうつ川の眺め、流れる氷河、みんなみんなリアリティがあって、本当に暑かったり寒かったり乾いたりしました。
最後のアメリカ鉄仮面はスパイもので、この人が!!という大どんでん返し。どの話にもちょっとしたロマンスのにおいがあって、外国人の登場が多いのですが、それもいい味を出していて、なかなか折竹の活躍が楽しみでどの話も読んでおりました。


私は子供のころから地図を見るのが大の楽しみでした。今でも暇があると歴史地図帳を見たり、地理のわかる地図帳を見たりして、ここにどんな見知らぬ人がいるのだろうかと想像を膨らませて育ってきたので、この本が、これだけ想像力を、世界のどこまでも働かせていることにとても共感できるのです。「魔境」を固定しないで、世界にちりばめてくれて、私の魔境感覚を崩さないでくれた本です。もっと早く読んでいればよかった。


どれをとってもワクワクする、探検・SF・スパイ・魔境小説です。

今までが難しかったんだなあ…。

昨日、初めてメンデルスゾーンの「ロンドカプリチオーソ」を見てみました。うーん。初見で通せてしまった。いや、曲を知っているというのもありますが、うーん。なんか、とても楽だ。


今まで弾いてた曲が難しかったのね。


なんか楽しいです。弾きたいように弾けて。メンデルスゾーンは私は日本のアマチュアオーケストラにお勧めの曲として、よく各地のオケで「やってみたらいいですよ」と言ってきました。決して簡単ではないですが、オーケストラ曲は、皆、出来がいいのです。構成がしっかりしていて、アンサンブルがしやすい、そしてきれいな旋律が出てくる。日本人に向いていると私は思っていました。そういう事もあってメンデルスゾーンは大好きだし、基本だと思っています。残念ながらピアノではほとんど弾いたことがなくて、今回初めてかもしれません。遊びで無言歌集などを弾いたりしていましたが、あくまで遊びなので自分の中には何も残っていません。


気持ちいいですね~すらすら弾けると。
でもこれも最初だけなんですよ。練習してると弾けなくなってくる。前回の幻想即興曲もそうだった。あれは初見で通した時が一番完璧に弾けていました。何でしょう、初見の集中力とでも言いますか、不思議です。


ちゃんとやると難しそうですが、しばらくこの曲を見ていこうと思っています。よくできた曲です。つくりがしっかりしているし、無理な指使いがないし(スクリャービンはすべて無理な指だったので、差が大きいです)、素直に響く和音が美しいです。


さて、睡眠負債の溜まったまま5時半起きで出勤してきました。宿題が全然わからなくてうーんうーんといいながら、あっちの論文こっちの論文とひっくり返し、基礎に立ち返ってネット検索などもしておりました。そうしたら、隣のいい人の上司が(今日は機嫌がよかった。ふうーーー。いつも機嫌をうかがいながらびくびくしてるんですけどね)、人に聞いてくればと言います。この、頭のいい、いい人の上司は、私のことを「何でも自分でやろうとする、人に迷惑をかけてはいけないと思って一人で悩んでいる」と前に言ったことがあるのです。何か調べるのでも、その人はすぐに人に聞く。もちろん自分でも調べる。ちゃんと証拠のとれたものでないと使わないですが、そうやっていつもダブルチェックしています。
見習おうかな。でも私のフロアは事務員の女性ばかりなので、専門分野のことで聞きに行くには別の階にいかないといけない。そこはあのダメな上司のいる部屋です。いけない…。


怖い怖い。でも人に教えてもらって、普通に一般的なサイトに出ていることが分かりました。そんなお手軽なものを使っていいのかわからないけれど、それで明日計算を始めてみます。


今日は記事3連発です。読書感想文もあるし、総括もあるし。
その前にピアノ弾いてきます~。

「女をかけない文豪たち」イザベラ・ディオニシオ

本の帯には
”「舞姫」「こころ」「真珠夫人」etc.ああも女心をわからないのは、なぜ??古典文学ではあんなに巧みだったのに(嘆)”


とあった、10月発売の新刊だったので、イタリア人女性から見た日本の近代文学についての感想というか、特に女性の扱いについて、鋭い意見が聞けると思い、Amazonで見かけて購入、すぐ読みました。


この著者は、日本文学を偏愛し、恋愛下手も自認する翻訳者だそうで、その方が文学史の誇る「最もくどくてどうしようもない男」たちから謎に迫る、ということがかかれていました。この文章自体が意味不明なのですが…。どういうことなのだろう。


例えば森鴎外「舞姫」。言わずと知れた、女を捨てた最低男物語として有名ですが、これをイタリア人女性はどう読むのか?被害女性(?)の行動力にはかなりの理解を示すものの、主人公は、何も自分で決めていない。あちらへ行けと言われれば行き、元の職に戻れと言われれば戻り、帰国しろと言われたら帰国する。そんな従順な、いかにも日本人的な男が主人公。そんなんでいいのか?自分で行動しなくていいのかと私なぞは思ってしまうし、この文学作品が腹が立つのはそういうところなのですが、この著者もそういうところは疑問に感じていて、「鈍感にもほどがある、自分が行動力がある人間なんてよく言えたもんだ」とあきれていました。本当に、まったくもって同感です。全然ロマンチックじゃないし、内省していたり後悔があったり葛藤があっても、はたから見たら滑稽なだけです。


例えば田山花袋「蒲団」。これには「妄想こそはオジサンの生きる道」との副題。うわはははは。めっちゃ笑いましたし、これは別に当時に限ったことではなく、現代のおじさんも妄想の世界に生きているので、今でも有効です。
何かの記事で読んだのだけれど、小説の新人賞に定年退職後の男性の投稿が多いのだそうです。そこに書かれているのは、年配の男(つまりオジサンの)と若い女性社員や女性とのロマンスとも言えない何とも言えない微妙なエロティックな小説が多いのだそうです。新人賞の選考ではまずそういう作品を取り除いていくところから始まるのだそうです。読まずとも、妄想の産物として、仕事してたときにそんなこと考えてたんかおっさんお疲れ~な気分で排除するのだそうです。おっさんは妄想が好きなのです。そして妄想は芸術じゃないんです。みんな渡辺淳一のあとにつづこうとして、まあたいていうまくいかないものだそうです。
「蒲団」は現実にあったことを下敷きにして書かれているけれど、それはどうなのだろう。ゾラを引き合いに出して「自然」「事実」というコンセプトから出発しているけれど、全く真逆の結果を生み出している。好きな人に相手にされないという、ごくありふれた現実の中で、誰も共感できないような人物を作り上げている。ゾラは遠近法的に客観分析できるのに対して、花袋は自分自身もその一部になっていることから、語られている内容のすべてが主観的にデフォルメされている(ぷぷ。全くだ)。
妄想フル活用などと、この本の著者はけちょんけちょんに叩ききってます。いや、このイタリア人の彼女に言いたい、現代のおっさんと、田山花袋は何も変わることはないですよと。


「こころ」に関しては、謎その1:「先生」の正体、謎その2:恋の魔法、謎その3:自殺を選ぶ男たちの心理、として述べています。西洋では一定の理解も示されつつ多くの国で翻訳されている「こころ」は結構の理解に苦しむらしい。私はフランス語の先生と「こころ」について議論したことがありますが、まずなぜお嬢さんと結婚したいことを本人の同意なしに親に言いに行って約束を取り付けるのかとか、抜け駆けについては、潔い日本人がなぜそんな卑怯な手段を選ぶのかとか、そのことについてコミカルやシニカルに書くのではなく真剣に自分の負い目として語り続ける暗さから何を表そうとしていたのかとか、そういった点について疑問を投げかけられました。この著者もその点の秘密について、イタリア人としては納得できないところが多くあるようです。不可思議とひとことでまとめられているのが、うーん。もう一歩掘り下げてほしかったです。
自殺については、K、乃木大将、そして先生、何か自分の人生を終わらせる重大な深刻なことが本当にあったのか、ということについて疑問視しています。乃木大将の場合は日本の伝統とか忠義心とかちょっと外国人には理解できないことかもしれないけれど、Kはどうして?イタリア人の感覚だと「あ~そっか、ふられちゃったか~、次に行こうっ」となるところが、内側に内側に思いつめて命を絶ってしまうことが理解できないそうです。今の若い人も理解できないんじゃないでしょうか。死を持って貫くべきことがあると私は思っているし、最近そういう事件に遭遇したから、命を懸けても守ることはあると思っている。Kはそういう意味であまりに単純に命を懸けるものに対して命を懸けたに過ぎないと私は思っているけれど、イタリア人からしたら、そこまで大事なことなのかと思うらしいです。


この著者は、源氏物語なども読んでいて、そこで描かれた恋愛模様を知っていて、日本文学にはこんな素晴らしい恋愛上手な男女がいたというのに、近代日本文学の男たちは総じてへなへなだと言っている(直接は言っていないけれど、そういう意味合いで書いています)。


それは私はかなり賛成だし、近代日本文学は男性の側からしか書かれていないことに不満を持っている一人でもある。だから、願わくばこの著者にもっとけちょんけちょんに言ってほしかったのです。
ちなみに源氏物語の男たちがみんなかっこいいのは、女性の妄想で希望する設定が多く組み込まれた人物が出来上がっています。現実には、あんな男たちは、いないいない。そして素直で従順なかわいい女も、いないものです。


著者は、いわゆる日本文学オタクと自称しています。それでも学者なので、文学だけではなく、その背景なども知りたいことは何でも知って、その上で文学で博士を取って、こういう論を書いているので、どこか学者然としていて完全に悪口は言わない。でも私は、辛辣に欠点を付いてほしかったと思ってしまっています。男性が女性を踏み台にしていた時代、それをもっとぐさりとやってほしかった。少なくともこの本の帯にはそれを期待させるものがありました。


でもまあ、ちゃんと、作品に対するリスペクトがあります。それはそれで、この著者が日本文学を愛してやまない気持ちがあらわれています。そこに私は物足りなさを感じるのです。


それから、文学作品に対する理解の深みが、やっぱり足りないと思ってしまう。表面的に見ればそうだけれど、男性作家たちは、自分たちのダメダメなところを出して、こんなダメダメで悩んで苦しんでもがいているけれど、そこで何かを見つけている、ということは全くかかれていない。というか、この著者は日本文学の各作品の、作品の迷路を抜けた出口にある「何か」に気が付いていない。この出口にある「何か」については私はかなり否定的ではあるけれど(ご都合主義的だと思っている)、男性にとってはそれは救いであったりする。


例えばゲーテの「ファウスト」は私は超ご都合主義いい加減にしろコノヤロウ文学だと思っているのです。悪魔に魂を売り渡したなら地獄へ落ちて苦しめと心から思うのです。でも、主人公の心の冒険の先には、つまり迷路の先には、救いがありました。こんなこと許されて?と憤慨するわけですが、それが作品として評価を上げているのであれば、何か意味があるんだろう、キリスト教社会での何らかの意味があるのだろうと思うのです。いや、私はクリスチャンだけどちっともわからないですけどね。
同様に、日本文学には、日本の男性が読んでこそわかる何かがあるんだと思うのです。女性が読むとやっぱり「男の文学だなあ~笑」となりますが、ちゃんと迷路の先に出口が、絶望であっても救いであっても何かが用意されているのです。その意味を、この著者はあまり考えていない気がしています。


ということで、文学への理解について、私は物足りなさを感じました。もちろんこの本の主題が、女心が分からない文豪という事ならば、そこまで触れる必要はないし、女心がいかにわからないかということに集中して本を書くべきだけれど…そういうわけでもない。


何か中途半端な完成度を感じて、私はこの本を自分の手元に置かないことにしました。
もっとも、続編として、川端康成と大江健三郎を取り上げてくれたら、私はまた買いますけどね。


ということでブックオフ行きです~面白かったけれどうちに本を置くスペースがないのですみませんが売りに出します。


ちなみに私が近代文学が男性の文学だと思っていて、もろもろの作家に足りていないのは、「共感力」だと思っています。女性に対して、共感力を働かせることは必要だったのではないかと思ったりします。男女は永遠に分かり合えないけれど、相手を知ろうとすることや、相手の立場になって考えようとすることは、できなくはないと思っています。
では、共感力を持った作家がいるかというと…何人かいますね~。全員私が大好きな作家なので内緒です。