ひまわり畑を夢見るブログ

44歳の時、乳がんの診断。ステージ2。手術して抗がん剤とホルモン治療。仕事と治療の両立の生活記録を残します。

建て替えか、リフォームか

この件について初めて専門家の意見をお伺いしました。ネットで具体的な相談に乗ってくれる紹介業者さんがいたので、いろいろ話を聞きました。午後6時半から8時半まで、長丁場でありがとうございました。


最初に予算の話、それから建坪の話になりました。


まず「42坪の平屋は普通ないです」だそうです。
ピアノを置く防音室を作っても、せいぜい30坪くらいで済むらしいです。あと平屋より二階建てのほうが安いのだそうです。まあそれはそうですよね、瓦をどれだけ使うか考えても、平屋だとめちゃ使うし、構造体として同じ面積なら2階建てにしたほうが安定したもの建つだろうと思います。平屋で屋根って、どうするんだろう…。


あと、リフォームの時も、耐震基準を満たしていないとリフォームしてはいけないらしいということも知りました。うちは屋根と壁と窓をやってもらう予定ではいるのですが、耐震構造・耐震基準なんて項目、入ってなかったぞ?もし耐震補強とかするなら、一階からやらないとダメではないですかね…その辺どうなんだろう。


それから、予算についてもシミュレーションを見ながら色々説明していただきました。リフォームローンって金利が高いのですね。多目的ローンよりリフォームローンのほうが金利は安いとは思っていたけれど、住宅ローンって桁が違う。めっちゃ安い。


とりあえず42坪は現実的ではないので、希望としては出しておくけれど、30坪くらいのこじんまりした家も見積もり出してもらおうということになりました。


できれば最初の訪問は大工さんに来てほしいと思っていましたが、最初は工務店の営業さんが来るそうで、建て替えのプランから支払い計画まできっちり作ってくれるそうです。


今日聞いたら、建て替えをするなら工務店さんが住宅ローンの手続きも協力してくれるらしいですが、リフォームの場合は工務店さんではやってくれないそうです。これも話を聞いておいてよかったです。自分であちこち借りられるか電話するのは面倒くさいので。


取り合えず建て替えとリフォームとで、見積もりと返済計画ができてみないと何とも言えないですね。


去年引っ越してきてからピアノの部屋をきれいにしたばっかりなので、これをすぐに壊してしまうのは、ちょっとなあと思っています。でもそのことだけで建て替えをしないのももったいない話なので、うーんどうするか。


リフォームは今屋根や壁をやっても、また追加で水回り(38年前にリフォームしている)をやらないといけないから、将来的にはまたお金がかかります。今日言われたのですが、38年前にリフォームしたのなら、お風呂やトイレの排水管も普通は交換するべきなのだそうです。まあ、家を建てさせたい業者はそういうでしょうね。


いろいろ問題抱えているんですよ。大正建築の蔵と離れはそのままだし、家の横の倉庫はアスベストの屋根だし…。建物だけの問題ならいざ知らず、庭まで手を出すと大変なことになります。庭には豊かな緑(豊かすぎだよ!!せめて冬は休め!!)、きれいに配置された岩や木々、竹林、花壇…みんな整理したら大変な額になる。


私が死んだら整地して売り出してください。その費用くらいは貯めておきますから。


そうだ、あと、父の兄弟(叔父)が生きている限りこの家は壊さないって母が言っていましたから、建て替えになったらちょっと先延ばしになるかもしれませんね。父の弟が一人存命で、父より10歳くらい若いのでまだ70台、ちょっと離れたところに住んでいますが、生家がなくなるのはさみしいだろうし、もし取り壊すなら一度見に来てほしいと思っています。


ご先祖様が残してくれた家をどうするか、非常に頭の痛い問題です。いずれにしろ、ヴァイオリンを買うくらいのお金は出ていくんですね…。
ヴァイオリンほしい(現実逃避)…。

インターナショナルな人間になったわけ

今では会社でも国際部門から仕事を任されるくらいになっていますが。


何でこんなになったかというと。
どこからでしょうね。掘り返してみます。


まず中高の英語の成績は最低でした。英語嫌いでした。「覚える」ということが全く嫌でした。そんなことしてまで勉強ができるようになりたくはなかったです。日々の単語テストとか、意味ないからやらない、というタイプでした。私の貴重な時間を勉強ごときで使うのが嫌で、まったく勉強しなかったです。


そんなこんなで、英語を勉強しないで大人になりました。


大学院のマスターで、いきなりインド人と一緒に仕事をすることになりまして。英語の成績がいいことと英語が話せることは別問題です。どういうわけか、私の思い切りの良さなのか、英語は話せました。英語の論文は学部時代から読んでいたし、最先端の学問だったから学部時代から教科書は英語で普通に読んでいました。単語で困ることはなく、インド人のインド英語で仲良く話をしていました。


2年目で、インドからとても偉い先生がいらっしゃいました。奥さんが招へい教授でやってきて、その旦那さんが、私の分野では超大物、ただ引退しているから正式には招へいできなくて、というので、その方たちのお世話をしていたのです。


当時まだUnixのシステムを使って計算を行っていたのですが、旦那さんのほうの偉い人が、私をめっちゃ使うんですよ。このデータ明日まで出しといて、このグラフつくっといて、この論文について明日ディスカッションしよう、この本を取り寄せて、などなど。


おかげさまで、修士論文は書けませんでした。付け焼刃で3日くらいで書いた修士論文が(すでに出版されていた論文の内容も含むので、結構ボリュームはあったのです)院で一番になってしまったりしましたが、あまりにこき使われて博士に進学する願書を出せなかったのです。自分の学校の先生だけではなく、T大の先生からも、N大の先生からも、TH大の先生からも、H大の先生からも、「うちの大学院に来い」と言われていたのですが、結局どこにも出願することができませんでした。


でもそのインド人夫婦と過ごした日々は今でも忘れられないくらい楽しかったです。朝9時出勤して、帰宅が夜中の3時でしたが。パワーあったなあ。


就職したのがとある省庁の研究所。去年まで私が働いていた研究所です。その研究所の上司は、私がそこにいったことで先に述べた先生方から「うちの大学院でD取らせたかったのに、お宅に行くなんて」と散々なじられることになります。そこで、初海外を経験しました。


飛行機に乗ったこともないのに、いきなり乗換ありでボストン行。マサチューセッツ州にある工学部の有名なインスティチュートへ。
今までも何となくインド英語は話していたのですが、乗り換えがJFK空港で、あまりに広くてわからなくて、多分、生まれて初めてネイティブアメリカ人と話しました。その時に、なんだ通じるやん、という実感を得ました。命がかかっていたので、必死だったんですね。乗換のしきたりが分からないから、多分保安員だったアメリカ人に自分の困っている状況を話して、通じました。とりあえず落ち着けと。深呼吸しろと。それから自分の乗る飛行機の航空会社のカウンターに行けと言われて、あそこの空港丸くなってるんですが、端から端まで歩きました。当時まだスーツケースを持っていなかったので、荷物は手持ちのカバンで、それを持ってあちらからこちらへ。アスファルトのにおいが日本とアメリカではこんなに違うのかと思いながらなんとか乗換できました。


ローカルな航空会社の窓口で、間違えてかばんごとパスポートも荷物室に預けてしまって、何かあったらヤバいと思いつつボストン到着。今は地下鉄があるんでしょうか、当時はボストンの空港から街に出るにはバスしかなかったのです。そこでも命がかかっているので、地元の人に尋ねて、通じました。ニューヨークなまりとボストンなまりをひしひしと感じました…同じ英語でも、今まで使ってきたインド英語とは全然違う、話している個人が違うと英語が違って聞こえるくらいに違う。


ちなみにマスターの時に国際学会にも出ていましたが、質問者は日本人だと思うと、しかも私はまだ若かったので高校生くらいに思われていたようで、とても親切に質問してくれたのです。だから困ったことはなかったのです。なんと運が良かったことだろう。


大学のレジデンスに滞在しましたが、初日にふらふらしていて出会ったイギリス人と仲良くなり、イギリス英語聞きやすい~と感動しました。結構長い付き合いしていましたが、その方は今はエディンバラ大学の教授だそうです。ハーバードな大学まで歩いて行ったりして、おいしい食事のできるところを一緒に探していました。いや~。スーパーで売っているマフィンとかは一つ食べるとおなかいっぱいなんですよね…。あと当時からアメリアのマクドは高かった。治安も悪かったからマクドで食べようとは思わなかったです。それからダンキンドーナツがいっぱいあって、当時は自販機のコーヒーもなかったので、コーヒーが飲みたいときはドーナツ屋さんに入っていました。スタバもありましたね。ボストンにミスドはないのですよ。


滞在中はどうやって英語が通じたのかわかりません。聞けば意味は分かるけれど、何と言いますか、対面しているから空気でわかるんですよね。いろんな国の人がいろんな英語を話すので、耳は混乱していましたが、空気で理解していました。


専門科目の授業も任せられていました。英語なんかまともに話せないんですが、みんなが騒いでいる間にレジデンスの屋上に行って一人で練習です。大声出して恥ずかしげもなく練習です。


そんなこんなで最初のボストン滞在が終わって、無事に仕事も果たせて、研究所生活に戻るのですが、その年のうちにインドネシア、タイ、マレーシア、そして当時国交がなかったラオス、台湾に飛ばされます。各滞在先の大学で講義を持っていたので、英語話しましたよ~これも夜中にホテルやレジデンスの屋上で練習です。日本の研究所にアメリカ人がいたので原稿を添削してもらい、後は発音する練習をしていました。結構な量の台本を持っていって覚えました。


行った先の地元の学生と仲良くなって、みんながとても私を歓迎してくれて、夜遊びに連れて行ってくれたりしました。いやいや当時国のパスポートで行っていたので、予定にない行動はしてはいけなかったんですが、遊びましたね~。そこで仲良くなった学生さん達が度々私の日本の家に遊びに来て、以来長い付き合いをしています。皆さんお国の偉い人になってます。


そんなこんなで、社会人時代には海外あちこち飛ばされつつ、ドクターに戻ります。入りなおしなので試験がありましたが、英語は満点で入りました。このおかげで学費免除が受けられました。
入ってすぐ海外です。今度はカナダのトロント。ええええ~。でも英語はわかりやすかったです。そのあたりで、海外滞在の常識「現地に着いたらまずイタリア料理店を探せ」を知ります。そうだよなあ、タイでもインドネシアでも、日本料理や中華料理に外れはあったけれど(日本料理では酸っぱいミソスープとか、中華料理店では明らかに食材ではないものが出たりとか)、イタリア料理だけは、はずれなかったです。その後この経験が役に立ちます。


帰ってきてから論文書いてる暇もなく、客員で来ている外国人の先生と、コミュ障の同期と、観測所に缶詰になりました。コミュ障同期が全然話せないし(おいお前エリートだろ??)、時期的にご飯を作ってくれる人が来られなかったので、私はご飯作り兼通訳兼観測手伝いを行っていました。アメリカ英語が日常になりまして。アメリカ人の先生からは大変感謝されました。そのコミュ障野郎、外国人とそのコミュ障と私になると私を通訳に使うのでとても嫌です。自分で話せよ。


D論はもちろん英語で書きまして(その前に投稿論文を書いていたのでまとめるだけだった)、D取って大学に就職したのですが、そこのプロジェクトが外国の方との共同研究だったので、早速海外へ。イギリスやアメリカからも先生が来ていて、一緒に仕事をしていたので、私が英語苦手なことを知られずに仕事ができました。


そしてなんだかんだで、フランスに行くことになり、頭の中の英語がみんなフランス語で置き換わるのでした。
一応、英語で授業する学校で教えていました。どの科目も英語で教えることができたし、おまけに日本文学もブラッシュアップしたし(学部の時に日本語専攻でもあったのです)、マルチに活躍できたのですが、何せ日常がフランス語ですからね。音楽学校もフランス語ですから。ご近所さんの影響で、生のフランス語を感じることでフランス語の脳みそが出来上がりました。学んだ言語ではなく、身に着けた言語なので、身につき方が違います。


フランスの楽しい日々はまた今度。本当に語りつくせないくらい楽しかったので。多分一冊本が書けるくらい目くるめく楽しい日々を過ごしていました。この世の天国。


この通りはrueではなく、行き詰まりのみちimpasseに住んでました。左側の青い扉がうちの扉です。真ん中に移っている猫はサンバというお向かいのピアニストのエリックさんちの猫です。


というわけで。英語の成績は関係ない、人と話せるかどうかが重要、と私は思っています。基本的は必要って言われるけど、基本ができていない私でも英語は通じるので、そんなに大事ではないと思います。一方で、英語で苦労したことはないのです。嫌がらないで会話して、嫌がらないで論文や教科書を読んだし、授業もやったので、避けないで来たことが良かったかなと思っています。


数学や物理もそうなんですが、「単純化して考えること」が大事だと思います。難しい単語を使わないで、いかに自分の言いたいことを表現するか、ぱっと思いつくと、あらゆることが楽になります。


今はフランス語から英語に切り替えるのに苦労していますが、最近は使い分けができるようになってきました。


さて今日こそはピアノ練習しよう。

引っ越し1周年、帰国10年と5か月

なんとも半端な。


去年の1月10日くらいに埼玉に引っ越してきました。埼玉の家では、38年前にリフォームした、元土間の14畳の洋間にベッドを置いて、そこに電子ピアノも机もクローゼットも置いて、寒い中細々暮らしておりました。


今年は違います。14畳の洋間は壁紙が変えられて黄色と茶色のおしゃれルームになりました。そしてザウターのグランドピアノ。猫足です。素敵~~!!そして傍らにヴァイオリンの山ができています。その端に机を置いて、作り付けの本棚も設置して、本棚には将来研究したい新青年関係の書籍がいっぱい。幸せ~。


引っ越してからずいぶん変わりましたが、一番変わったのは仕事ですかね。


ずっと前の話だけれど、フランスから本帰国したのは2012年9月でした。ロンドンのオリンピックを見たいなあと思いつつ、思いっきりお金がなかったので、日々の地下鉄の無料新聞で様子を知るだけで、なんとも味気ない夏をパリで過ごしました。8月に母が来て一緒にルルドに旅行に行きました。その時に持ち帰った水がまだ冷蔵庫にあります。


ルルドには、母と一緒に特急列車で行きました。サンラザール発のトゥールーズ行き列車でルルド駅に止まる便を2か月前から予約していました。今もそうかもしれませんが、列車の予約は早い方が料金が安いのです。ネットでちゃちゃちゃっと。


駅に着くと、自分で勝手に切符を切るんです。穴をあけるマシンがあって、そこに切符を通すとそれでOK。一応車内見回りが来ましたが、私はフランス語が話せたので、駅員さんと仲良くなったりもしました。バックパッカーの旅行客もいて、その人たちとは英語で会話。


ルルド駅から宿まではタクシーで。本当にいい宿だったんです。午後3時ころ到着して、歩いてすぐの聖域を見学してきました。養老院もついてるんですね。あと奇跡記念館がありましたが、フランス語の難しい単語がいっぱいでわかりにくかったです。当時のローマ法王が近々訪問するのでいっぱい旗が立ってました。

聖堂。上と下は別々の教会で、上がマリア様の教会です。


聖域の中央の庭には様々な十字架が。アイリッシュクロスや、正教会の十字架があり、これをもとに私は十字架について調査して文章を書いて寄稿したことがあります。

遠くに聖堂が見える、十字架群。


基本カトリックの十字架なんですが、こういうケルティックな十字架もありました。


聖域の教会は1階と2階があって、2階がマリア様の教会でした。

豪華絢爛な聖堂です。


その建物の右をずっと抜けていくと、ありました、奇跡の洞窟。聖女ベルナデッタが、マリア様に泥水を啜るように言われてその通りにした、川沿いの岩場。岩の高いところにマリア様の像があり、皆さんが水をいただくことができるように、いっぱい蛇口がついていました。

洞窟に並んでいた時。夜になると右手のろうそくの山に火が付きます。


こんな風に蛇口が並んでいました。


巨大なろうそくを奉納しまして、夜を楽しみに宿に引き上げ、夕飯を食べて夜行ってみました。毎晩ろうそくのパレードなのです。夕方から、人々に担ぎ上げられたマリア様が洞窟の方から聖域の中心部に向かう。皆さんろうそくをともしてそれに付き従うのです。


私と母はなかなかそのろうそくを見つけることができなくて、もうだめか、あきらめようと思っていたところ、洞窟の近くでろうそくのサービスを発見。二人で火をともして、列に加わりました。私は涙ボロボロだったんですが母はどうだったんでしょうね。ろうそくと一緒にその囲いになるものもくれるんですが、ろうそくが度々消えてしまい、旅行者から英語でその囲いの使い方をおしえてもらって、無事にろうそくをともして列に加われたのです。

このろうそくの飾りのすぐそばで無料のろうそくサービスを見つけました。


日本人どころか中国韓国の東アジア人は全くいなかったですね。宿の人は私がフランス語ペラペラなのでびっくりしてました。いい宿でした。窓から城壁が見えて、その上に月が浮かんでいるのを眺めて夜を過ごしました。

見づらいけれど、月明かりの下に城壁が浮かんでいます。


ちょっと遠くから城壁を見ました。


翌朝、朝食後に宿を出て沐浴したんですが、個人ブースみたいなところに入って、着ているものをフックにかけて、真っ裸にされて、女性が左右一人ずつ、腕をつかんで水にぼちゃんと一回浸かっておしまいです。一瞬。


でもそのおかげで私も母も今でも平和にやれています。マリア様のおかげです。ちなみに寛容でないプロテスタントの人たちはマリア様信仰を嫌がりますが、我々カトリックは寛容ですから、聖書に書かれていないマリア様のことを想像して、奇跡を起こした一人としてお祈りの取次ぎをお願いしていますよ。この旅行の前に不思議のメダイ教会にも行ってきました。


私はまたルルドに行くつもりでいるけれど、母はいい年してまた行きたいと言っています。86歳ですからね、ちょっと心配です。行くならルルドから南フランスを通ってイタリアでアッシジに向かいますかね。


ちょっと懐かしい10年前の話でした。


いやいや今日は出勤日で眠いんですけどね。寒いと思って、ダウン着て、耳あてに帽子で完全防寒していったら意外と暖かかったです。


明日は会議。ないネタを絞り出さなければ。