ひまわり畑を夢見るブログ

44歳の時、乳がんの診断。ステージ2。手術して抗がん剤とホルモン治療。仕事と治療の両立の生活記録を残します。

やっと2階の床を補強してもらえた

今日は在宅だ~。
8時半には職人さんたち来るから、7時には起きてご飯とごみ捨て。
8時半くらいから仕事を始めていて、屋根屋さんはいつも挨拶に来てくださる。2階の柱作っている人たちは挨拶なしで入っていって。


まあ、今日も暑いけど頑張ってね!な感じでおりました。


どごん!どごん!ばりばりばりばり!ドゴン!
こんな音が、お昼から夕方まで…いや、うちの2階の床板って、床板一枚で1階なのよ…だからめっちゃ響く。
うちを壊す気か??
何度か見に行きそうになりましたが、職人さんたちと、この家を信じて、頑張ってもらいましょう。


今まで2階での作業中に1階に木くずやほこりが落ちてきて家の中が大変なことになっていたのでその処置なんですが…。


午後終わったので、見に行ったら、その床板がもうかなりダメらしくて、敷きなおししたほうがいいと。大工さんたちが、何度か床を踏み破ってると。
杉の板で良いから処置がしたいけれど、これは工賃に入っていないので、そして2階は広大なので、うん千万の改築費とは別になりますね。何百万かかるか。


今日は屋根に上らせていただきました。
これは屋根の尾根?一番上だけまだ張ってないところがあって、でもほぼ張り終わっていて。完璧ですね。

この手すりみたいなのが屋根の合わさるところ。ここは別の瓦を載せるので開けてあります。
今の瓦は、ねじで止めるんだそうです。昔の瓦は紐みたいなのでつながってましたね。
こっちは、越屋根ですが、ここに屋根を付ける日は何とかの日(棟上げ?)っていうんですけど、なんかしないといけないかな?


鬼瓦は、屋号が入ったものは越屋根につけてくれるそうで(古い屋根瓦ね)、新しい鬼瓦は家の屋根につけてくれるそうで(かなりでかい!!)、家紋を入れてくれるとのこと。
うちの家紋、2枚鷹の羽なんですが、屋根屋さんは「2枚鷹の羽ってもいっぱいあるんだよ」って言われて、うーん。私の写真の中に、お墓の写真があったら、それ見せるんですが、残念ながら横からの写真しかなくて確認できなかったです。屋根屋さんが家紋帖を持ってきてくれるそうですから、明日のお昼休み、ちゃっちゃっと自転車でお墓に行って家紋を取ってきますかね。


仕事に戻り。ともかくうるさかったので私の作業は全然進まず。上司になんと報告しよう。
あと2階で作業していた人たちが、曽祖父と、祖父の、名前と住所の入った木の板を見つけてくれました。なんといったか、多分、ものを送るとき、郵便とか、宅急便?その時に用いた木の札ではないかとのことです。


ちなみに祖父の名前は私の姓と違っていて、住所も川崎市南幸町。東芝川崎勤務だったので、その時のものかな。父がいたら見てくれたんだろうけれど、父はもういないからねえ…。叔父さん一人生き残ってるから、知ってるかな??


住所検索したら今もありましたが商業施設になっている模様。


私の祖父は、埼玉の田舎の三男坊で、口減らしのために子供の頃から海軍学校に入り、横須賀で勤務していた軍人です。子供の頃はいろんな軍艦に乗って、通信で受信したことを新聞に書いて、新聞小僧とかわいがられたそうです。その話を聞いたときは私はあまり興味がなかったので聞かなかったですが、いまだったら、なんという軍艦に乗ったのか事細かに知りたいです。海軍での最後の地位は大尉。鎮守府と日吉台(現在の慶応日吉キャンパス)勤めだったので、本当の第二次大戦の最後まで、若者を船に乗せ、飛行機に乗せ、特攻隊が最後に通信が取れなくなるところまで通信技師として見送った、なんとも悲しい歴史をたどった人です。祖父はこのことは言わなかったけれど、祖父の葬式に来ていた人がなんだかそんなことを言っていたので、言いたくなかったんでしょうね。
戦争が終わってから、東芝に就職し川崎に移り住んだんだと思います。でも祖母とは結婚していたから、戦中は祖母も私の父も叔父も埼玉にいたはずで、単身赴任だったのかな?
その後、私の家の養子に入ることになりますが、占領軍開放時に、この家の持ち主だった曽祖父は、家や土地や山などの権利を、祖父ではなく私の父に生前贈与しました。


その時にいろいろあってね!!今でもトラブルになっているんだけど!!持ってる土地が多いといろいろあるんですよ。


祖父はとても温和な人で人に慕われましたが、厳しいところもあって、お転婆が過ぎた私と私の一つ違いのいとこはよくしかられてました。山の管理もよくやってくれて、時々木を切ってきて、餅つき用の杵ばっかり作ってたので、蔵には杵ばっかりあります。子供の頃はお正月はお餅つきをやってくれてました。体の弱かった父はできなかったんですが。

祖父が亡くなってから、いろいろ遺品が出てきました。海軍マントとかすごくあったかくて、かっこいい飾りがついていて、勲章や抜けないサーベルなんかもありましたね。みんな盗まれちゃったか、祖母が売り払ってしまったか。一緒に満州に行った行李は私が再利用しています。

おじいちゃん出てきてくれてありがとう。

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