ひまわり畑を夢見るブログ

44歳の時、乳がんの診断。ステージ2。手術して抗がん剤とホルモン治療。仕事と治療の両立の生活記録を残します。

病気で仕事を続けること

病気になったら、これからの治療も大変そうだし、いろいろ考えてしまい、


結果として、仕事に対するモチベーションが、なくなってしまいました。


今後、研究職を続けていく自信がありません。こんなめんどくさい仕事をずっとやっていく勇気がありません。というか途中でくびになってしまうかもしれません。


もう、潮時かな。研究職にしがみついてきたけど、今日も一日ぼーっとして研究進まなかったし、もうなんか、だめかな。だめなんだろうなと思ってしまう。

そりゃ病気が気になって進められないというのもありますよ。でも明日なんか出張で会議があるのに資料作りなんてまったく出来なかったし、頭の中すっからかんですもの、もうなんかこのまま辞めていってもいいんじゃないかくらい思ってしまいます。

私じゃなきゃ出来ない研究ってわけじゃないですし、世界に私だけというわけでもないですし。

田舎に引っ込んで、スーパーのレジとかやりながら、細々と暮らすのがいいんじゃないのかな、派遣社員でそれなりに稼いで定時で上がれるような仕事に就いたほうがいいんじゃないかな、なんて思ってしまいます。

がんと付き合っていく上で、規則正しい生活、全うな栄養は必須だと思うのです。それでも再発する人がいるくらいだから、私が今までの研究生活をずっと続けていたらそりゃもう再発転移は避けられないと思うのです。


実家が恋しいです。誰もいないんですけどね、冬は寒く夏は暑いんですが、家はそのまま誰も住んでいないで時々私が面倒を見に行っていますが、そこに戻りたい。

骨シンチで暇な一日

骨シンチグラフィ(骨シンチグラム?)の日でした。


結論から言うと、高い!16800円なり。


原理的にはどういうものが分かりません。多分、放射性物質を注射して、それが骨に吸着されやすい性質を利用して、その放射を感知するという方法なのではないかと思います。朝9時に注射を受けて、そこから4時間、暇。病院から自宅に帰る手もありましたが(自宅まで15分もかからない)バスに乗っての移動はめんどくさいし、家に帰ってやることもない。ならば、と病院の待合室で寝てました。


11時半くらいになって、病院に付属しているドトールコーヒーでお昼ご飯。本を一冊もって行っていたので、1時間くらい読んでいました。


それで、やっと待っていました検査。ベッドに寝て、自分の上下や周りを板がゆっくり移動したり回ったりして、30分くらいかかりました。


これが終わったのが2時。


今日、一日がかりになるかなと思って会社を休んでしまいました。仕事先直行のバスもあるのでそれから出勤しても良かったのですが、せっかく取った休みをつぶすのは何だかなあと、自宅に帰りました。


自宅に帰ってから暇。

骨に転移していたらどうしよう、それだけで何をする気にもなれなかったです。

骨に転移すると症状ってあるんでしょうか。痛むとか、違和感があるとか。それだったら今のところ骨のどこも痛くも痒くもないです。ガイドラインを読んでも、必ずしも初期治療の前に骨シンチグラフィをやらなくても良いと書いてあります。なんだかただひたすらに私の恐怖感を増すためだけにやったような検査でした。そして、金がもうね、生検もMRIも高かったし、今後あと残してるのは全身CTなのですが、その検査料金だけで相当な額を超えてしまいます。もうお金ないです。今年一年で100万ためるつもりが(その5倍以上もらっているので当然そのくらいはたまるはずなのですが)ためられなかった。


はあー。


明日はまじめに働く、あさってCT、その一週間後に判決です。

母の肺腫瘍の手術の日+内地へよろしく

母が肺に8ミリほどの腫瘍があり、それを摘出する手術をするというので仕事を休んで出かけてまいりました。


大げさかな、胸の切開をしない腹腔鏡手術なので、まあ、たいしたことないかなと思っていましたが、我々3姉妹勢ぞろいで手術室まで大名行列のように送ってきました。手術はちょっと長引き、姉が娘のお迎えで帰宅してしまい、最終的には私と妹が待つことになりました。手術が終ってICUに面会に行くと膨れた母が。

医師の説明では、細胞を採取し病理検査をしたところ、悪性の腫瘍だったので、なんといいますか、肺の袋ひとつ取り出したのだそうです。母は意識があり、ちょっとくるしそうでした。なんだか涙が出てきました。泣きそうでした。母が無事だったということでしょうが理由は分かりません。私も2ヵ月後には同じ姿になっているんだと思う辛さもあったと思います。私の場合は、きっと、悪いところをとってもらっただけではなく、大事なものを失った悲しみで、きっとICUで目覚めても平然としてはいられないと思うのです。それを思うともっと辛かった。


取り出した肺葉を見せてもらいました。あんなぷよぷよしたものが入ってるんですね。


手術中、前後、病院の雰囲気がとても苦手です。前に書いたとおり父を亡くしているのでそのときの感情がよみがえってくるのです。手術室やICUはもう特にびりびりと魂を締め付けてきます。父ばかりでなく母まで命を奪うんじゃなかろうか、そんなことすら思ってしまいました。まあいずれはお世話になるんでしょうけれど。


その前に私がお世話になるんですけどね。まだ母や姉には乳がんのことは話していません。とりあえず姉の仕事の休みだけ聞いておいて術式説明には来てもらおうと思っております。


十蘭先生の「内地へよろしく」の最後のほうを読んでいました。帰りの電車で、あと終わり数ページになって、もう涙ぼろぼろでした。途中、まるで戦争を肯定するような、曲解すれば戦争賛美派的な表現が多く、ちょっと十蘭大先生に対する反感もわいたのですが、最後まで読んで、それはちがうんだと分かりました。もう最後はお得意の儚さのオンパレード、そしてでてきた「私」に、誰???何、この電車の中で涙だらだらで鼻水すすりまくって読んでる私に最後の最後で謎賭けですか???あたふたして最初から読み直してしまいました。しかし、これも、十蘭お得意のレトリックなのでしょう。

ともかくも、個性の際立った、キャラの立つ話でした。明日戦場に戻ろうという若者が内地の見納めに東京見物に来ているのに、東京の片田舎で故障しているトラックを直して怪我した運転手の代わりにジャガイモを築地に届けてあげるくだり、本当に死を背にしている様子が迫ってきて、お得意の儚さにあふれていて、なんとも悲しい寂しい、そして彼らの心の平和を願わずにいられない気持ちにさせられました。結婚式騒動もなんとも日本らしい、一方で戦争をやっているのにまるでやくざの見栄の張り合いみたいなお祭り騒ぎで、背後に戦争があるが故のことなのだと思うと本当にこの時代を経験した人たちの人間観というか死生観がひしひしと伝わってきました。今まで十蘭先生の名著といったら「紀ノ川一族」をあげていましたが、いまや反戦的小説「だいこん」と並んで私のNo.1になりつつあります。


良く涙した一日でした。

折りしも父が大手術をしたのが8年前の今日。