ひまわり畑を夢見るブログ

44歳の時、乳がんの診断。ステージ2。手術して抗がん剤とホルモン治療。仕事と治療の両立の生活記録を残します。

「魔女・怪物・天変地異」黒川正剛

副題として「近代精神はどこから生まれたか」とつけられています。
本の構成の順番は、天変地異・怪物(奇形)・驚異(未開の地:おもにアメリカの動植物)が大部分で、最後の1章だけ魔女について書かれています。はじめは、この本はなんのために書かれた本なのだろうかと迷子になってしまうような感じでした。


主に、「好奇心」について書かれています。
前にも書きましたが、「好奇心」が昔は大きな罪だったころからの話がつづられていて、途中、奇形の子供が生まれると、それが天変地異と結びつけられたり戦争と結びつけられたりしていたという話に展開され、また好奇心に戻り、好奇心には「悪徳としての好奇心」があり、それがやがて17世紀くらいには「知的原動力としての好奇心」に変わっていく、というストーリーで、魔女は正直あまり関係なかったかな。


このように好奇心が変化していく時代(17世紀くらい)には何があったか。著者はどうしても魔女狩りと関連付けたいみたいで、一つ目に魔女狩りの終焉をあげています。これには前に別の本でも読んだけれど、「魔女なんているわけないじゃん、想像の産物じゃん」という理性的な考え方が充満してきた背景があります。そして、悪魔の手先である魔女の存在や魔術の存在が否定されて、魔女狩りがだんだん少なくなっていくのですが、それと知的好奇心が認められていくことにはあまり関連がないように私には思えます。むしろ魔女狩りではなく、そうした理性的なものの見方が、知的好奇心の言われない抑制を開放してきたのではないかと思います(知的好奇心が罪悪であったのは、アダムとイヴの物語で、イヴが好奇心から果実を食べてしまうところまでさかのぼるのです。それ以外にも聖書の各所に、知りすぎることや、自分の範囲を超えて知識を求めることをいさめる文章が結構あります)。


もう一つ、起こったことは、驚異が神の怒りというよりもむしろ自然の産物だということがわかってきたから、つまり驚異の時代の終焉だと言っています。これは確かにそうだと認められると思います。例えば錬金術が実は化学の基礎となっているように、非現実的な分野の試行錯誤が、現実的な理屈で物事をとらえる基礎になってしまい、結果的に、物事には原因があって結果があるという単純な(科学的な)ことがわかるようになってきた時代が17世紀くらいだったんだろうと思います。


最後の章で魔女を扱っているのですが、そこで「男の好奇心」は認められ、「女の好奇心」は魔女狩りの終焉後の時代に至っても言及されないということが描かれていました。結構これは大事なことで、学問をやるのに男性が多くて女性は少ない現状にもつながっているんじゃないかと思います。男性の方が理性的?そんなん、どうとでもいえると思うんですよね。単に家父長制度の整ってきた中世末期近世のヨーロッパにおいて、職業を持てるのは男性だけで、その職業の中の一つに研究というジャンルがあったから、一般的に研究は男性がやっているような気がします。女性は知的好奇心を満たすよりは家庭で決まったルーチンワークをするのがあるべき姿と定着してしまったから仕方ないんでしょう。


好奇心について考えさせられる本ではありましたが、魔女狩りに関する情報は得られなかった感が大きいです。無理してつなげなくても、中世からどうして近世に移行して、近代という時代を迎えたのか、そういう流れを示せば、自然と好奇心が世に周知されていく過程も見えてくると思うのです。


私なりの考えですが、好奇心を抑えることは、宗教倫理を守らせるためには必要なことだったのではないかと思います。その昔、キリスト教社会では、好奇心を持つものが魔術にはまるのだといわれていたそうです。確かに、いろんな神秘に遭遇した時に、人は理由を探したくなると思うのです。キリスト教社会ではそれはすべて神に起因すると考えられていて、それ以上のことは詮索するなということだったと思うのです。現在はどうでしょう。人類は宇宙に出て、人類の作った人工衛星は太陽系を飛び出すまで情報を送って、地球の成り立ちや宇宙の成り立ちを知ろうと努力しています。そういう方面の学問を志す人達はたいてい好奇心で動いていると思うのです。「こんなことが判明したら、すごいぞ!」という意思があってだと思います。さらに現在では教育に好奇心が利用されています。好奇心を持つ子供がいい子とされていて、その好奇心を満足させるべく行動をとる(調査する、研究する)子供が優秀な子供とされてきています。
中世の、教会の力を維持するための好奇心の禁止は、現在は必要ではないのですが、それでも現代においても「わかる以上のことはするな、わからないことはわからないでとどめておけ」という考え方もあるようです。わかることなんて増やしていかないと増えないし、いつまでもわからない状態で、学校教育で教わったことだけで立派な人間になれるとは到底思えません。例えば異性の心情を想像することや、丁寧に心情を聞いて理解しようとすることが出来なければ恋愛はできないだろうし、顧客の希望を丁寧に聞いて、自分が知らなかったことを教えてもらって、仕事につなげていけないとお金にならないと思うのです。疑問に思ったことをそのまま放置しては、人災や損害につながるのです。それ以外に、日常を豊かにするための教養として(教養なんてあっても飯は食えないといわれるかもしれませんが)、知的好奇心を持って自分で調査していく力というのは現代において想像力の豊かさを培うためにも重要なのではないでしょうか。


と、私は自分が知的好奇心だけで動いていることに対して弁解してみました。
さて、また新しい好奇心を満たすために新しい本を読みましょう。
次は推理小説。今月中にもう1冊読めるかな。


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