ひまわり畑を夢見るブログ

44歳の時、乳がんの診断。ステージ2。手術して抗がん剤とホルモン治療。仕事と治療の両立の生活記録を残します。

「女をかけない文豪たち」イザベラ・ディオニシオ

本の帯には
”「舞姫」「こころ」「真珠夫人」etc.ああも女心をわからないのは、なぜ??古典文学ではあんなに巧みだったのに(嘆)”


とあった、10月発売の新刊だったので、イタリア人女性から見た日本の近代文学についての感想というか、特に女性の扱いについて、鋭い意見が聞けると思い、Amazonで見かけて購入、すぐ読みました。


この著者は、日本文学を偏愛し、恋愛下手も自認する翻訳者だそうで、その方が文学史の誇る「最もくどくてどうしようもない男」たちから謎に迫る、ということがかかれていました。この文章自体が意味不明なのですが…。どういうことなのだろう。


例えば森鴎外「舞姫」。言わずと知れた、女を捨てた最低男物語として有名ですが、これをイタリア人女性はどう読むのか?被害女性(?)の行動力にはかなりの理解を示すものの、主人公は、何も自分で決めていない。あちらへ行けと言われれば行き、元の職に戻れと言われれば戻り、帰国しろと言われたら帰国する。そんな従順な、いかにも日本人的な男が主人公。そんなんでいいのか?自分で行動しなくていいのかと私なぞは思ってしまうし、この文学作品が腹が立つのはそういうところなのですが、この著者もそういうところは疑問に感じていて、「鈍感にもほどがある、自分が行動力がある人間なんてよく言えたもんだ」とあきれていました。本当に、まったくもって同感です。全然ロマンチックじゃないし、内省していたり後悔があったり葛藤があっても、はたから見たら滑稽なだけです。


例えば田山花袋「蒲団」。これには「妄想こそはオジサンの生きる道」との副題。うわはははは。めっちゃ笑いましたし、これは別に当時に限ったことではなく、現代のおじさんも妄想の世界に生きているので、今でも有効です。
何かの記事で読んだのだけれど、小説の新人賞に定年退職後の男性の投稿が多いのだそうです。そこに書かれているのは、年配の男(つまりオジサンの)と若い女性社員や女性とのロマンスとも言えない何とも言えない微妙なエロティックな小説が多いのだそうです。新人賞の選考ではまずそういう作品を取り除いていくところから始まるのだそうです。読まずとも、妄想の産物として、仕事してたときにそんなこと考えてたんかおっさんお疲れ~な気分で排除するのだそうです。おっさんは妄想が好きなのです。そして妄想は芸術じゃないんです。みんな渡辺淳一のあとにつづこうとして、まあたいていうまくいかないものだそうです。
「蒲団」は現実にあったことを下敷きにして書かれているけれど、それはどうなのだろう。ゾラを引き合いに出して「自然」「事実」というコンセプトから出発しているけれど、全く真逆の結果を生み出している。好きな人に相手にされないという、ごくありふれた現実の中で、誰も共感できないような人物を作り上げている。ゾラは遠近法的に客観分析できるのに対して、花袋は自分自身もその一部になっていることから、語られている内容のすべてが主観的にデフォルメされている(ぷぷ。全くだ)。
妄想フル活用などと、この本の著者はけちょんけちょんに叩ききってます。いや、このイタリア人の彼女に言いたい、現代のおっさんと、田山花袋は何も変わることはないですよと。


「こころ」に関しては、謎その1:「先生」の正体、謎その2:恋の魔法、謎その3:自殺を選ぶ男たちの心理、として述べています。西洋では一定の理解も示されつつ多くの国で翻訳されている「こころ」は結構の理解に苦しむらしい。私はフランス語の先生と「こころ」について議論したことがありますが、まずなぜお嬢さんと結婚したいことを本人の同意なしに親に言いに行って約束を取り付けるのかとか、抜け駆けについては、潔い日本人がなぜそんな卑怯な手段を選ぶのかとか、そのことについてコミカルやシニカルに書くのではなく真剣に自分の負い目として語り続ける暗さから何を表そうとしていたのかとか、そういった点について疑問を投げかけられました。この著者もその点の秘密について、イタリア人としては納得できないところが多くあるようです。不可思議とひとことでまとめられているのが、うーん。もう一歩掘り下げてほしかったです。
自殺については、K、乃木大将、そして先生、何か自分の人生を終わらせる重大な深刻なことが本当にあったのか、ということについて疑問視しています。乃木大将の場合は日本の伝統とか忠義心とかちょっと外国人には理解できないことかもしれないけれど、Kはどうして?イタリア人の感覚だと「あ~そっか、ふられちゃったか~、次に行こうっ」となるところが、内側に内側に思いつめて命を絶ってしまうことが理解できないそうです。今の若い人も理解できないんじゃないでしょうか。死を持って貫くべきことがあると私は思っているし、最近そういう事件に遭遇したから、命を懸けても守ることはあると思っている。Kはそういう意味であまりに単純に命を懸けるものに対して命を懸けたに過ぎないと私は思っているけれど、イタリア人からしたら、そこまで大事なことなのかと思うらしいです。


この著者は、源氏物語なども読んでいて、そこで描かれた恋愛模様を知っていて、日本文学にはこんな素晴らしい恋愛上手な男女がいたというのに、近代日本文学の男たちは総じてへなへなだと言っている(直接は言っていないけれど、そういう意味合いで書いています)。


それは私はかなり賛成だし、近代日本文学は男性の側からしか書かれていないことに不満を持っている一人でもある。だから、願わくばこの著者にもっとけちょんけちょんに言ってほしかったのです。
ちなみに源氏物語の男たちがみんなかっこいいのは、女性の妄想で希望する設定が多く組み込まれた人物が出来上がっています。現実には、あんな男たちは、いないいない。そして素直で従順なかわいい女も、いないものです。


著者は、いわゆる日本文学オタクと自称しています。それでも学者なので、文学だけではなく、その背景なども知りたいことは何でも知って、その上で文学で博士を取って、こういう論を書いているので、どこか学者然としていて完全に悪口は言わない。でも私は、辛辣に欠点を付いてほしかったと思ってしまっています。男性が女性を踏み台にしていた時代、それをもっとぐさりとやってほしかった。少なくともこの本の帯にはそれを期待させるものがありました。


でもまあ、ちゃんと、作品に対するリスペクトがあります。それはそれで、この著者が日本文学を愛してやまない気持ちがあらわれています。そこに私は物足りなさを感じるのです。


それから、文学作品に対する理解の深みが、やっぱり足りないと思ってしまう。表面的に見ればそうだけれど、男性作家たちは、自分たちのダメダメなところを出して、こんなダメダメで悩んで苦しんでもがいているけれど、そこで何かを見つけている、ということは全くかかれていない。というか、この著者は日本文学の各作品の、作品の迷路を抜けた出口にある「何か」に気が付いていない。この出口にある「何か」については私はかなり否定的ではあるけれど(ご都合主義的だと思っている)、男性にとってはそれは救いであったりする。


例えばゲーテの「ファウスト」は私は超ご都合主義いい加減にしろコノヤロウ文学だと思っているのです。悪魔に魂を売り渡したなら地獄へ落ちて苦しめと心から思うのです。でも、主人公の心の冒険の先には、つまり迷路の先には、救いがありました。こんなこと許されて?と憤慨するわけですが、それが作品として評価を上げているのであれば、何か意味があるんだろう、キリスト教社会での何らかの意味があるのだろうと思うのです。いや、私はクリスチャンだけどちっともわからないですけどね。
同様に、日本文学には、日本の男性が読んでこそわかる何かがあるんだと思うのです。女性が読むとやっぱり「男の文学だなあ~笑」となりますが、ちゃんと迷路の先に出口が、絶望であっても救いであっても何かが用意されているのです。その意味を、この著者はあまり考えていない気がしています。


ということで、文学への理解について、私は物足りなさを感じました。もちろんこの本の主題が、女心が分からない文豪という事ならば、そこまで触れる必要はないし、女心がいかにわからないかということに集中して本を書くべきだけれど…そういうわけでもない。


何か中途半端な完成度を感じて、私はこの本を自分の手元に置かないことにしました。
もっとも、続編として、川端康成と大江健三郎を取り上げてくれたら、私はまた買いますけどね。


ということでブックオフ行きです~面白かったけれどうちに本を置くスペースがないのですみませんが売りに出します。


ちなみに私が近代文学が男性の文学だと思っていて、もろもろの作家に足りていないのは、「共感力」だと思っています。女性に対して、共感力を働かせることは必要だったのではないかと思ったりします。男女は永遠に分かり合えないけれど、相手を知ろうとすることや、相手の立場になって考えようとすることは、できなくはないと思っています。
では、共感力を持った作家がいるかというと…何人かいますね~。全員私が大好きな作家なので内緒です。

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