ひまわり畑を夢見るブログ

44歳の時、乳がんの診断。ステージ2。手術して抗がん剤とホルモン治療。仕事と治療の両立の生活記録を残します。

「作曲家・人と作品シリーズ:ショパン」小坂裕子

去年はベートーヴェン生誕250年だったんですが、去年ショパンコンクールがあったので、ショパンの伝記も読んでみるかと、ヤマハで手にした本です。


ショパンの歴史については、小学校くらいの時に図書館で読んでいました。だから大雑把なことは知ってはいるんですが、当時はジョルジュ・サンドがどんな役割を果たしていたかとか、サンドとショパンの破局の原因とか、亡命ポーランド人ということについて全く知識がなかったために、ショパンはすごい演奏家で、遠くポーランドを離れてパリで成功したけれど、病弱で早逝したという、漠然とした歴史しか知りませんでした。


この年になって、ショパンのほとんどの楽曲に親しんできた今になって、どの曲がどのタイミングで作られたのかというのをリバイスする意味もあって、薄い本ですが、ショパンの歴史をたどってみました。


ショパンのお父さんはフランス人。ポーランドでフランス語の教師として働いていたのですが、いい先生だったので宮殿の一部に部屋を与えられて、貴族との交流が多かったようです。当時のポーランドも貴族はフランス語を話す人が多く、ショパンもまたフランス語はペラペラだったようです。ショパンは1810年生まれ。そのころポーランドという国は一応あったみたいな感じですが、ポーランドの分割が趣味のロシアによって分割されていました。その後ショパンが海外に行くときにはロシアの旅券を持っていかなければならなかったことから、ロシアの支配地域の生まれだと思われます。


才能は8歳くらいから発揮されて、最初の作品は8歳だったと思います。この辺の初期の作品については、ショパンがなくなってから、作品番号の後期に羅列されることになります。


音楽学校に入って習作を残します。ポーランドにいるときに2つのピアノコンチェルトを書きます。噂では、オーケストラ部分は誰かに依頼したのではないかということですが、多分当時そういうことは普通に行われていたようです。ちなみに2番の方が先に書かれていて、直後に1番が書かれました。それを書いていたころウィーンに行きますが、なかなか演奏会の機会が与えられず、でもやってみたら大成功だったようです。で、今度はパリを拠点にすることになるのですが、ショパンは自分が演奏会をするのが嫌いで、教えたり、サロンで即興をしたりするのは好きだったようで、主な収入源は作曲の著作権を出版社に売ることでした。演奏活動で稼いでいたリストなどとは異なり、もともと楽理科出身のショパンはより良い曲を作ることと、ピアノの指導に熱を入れていたようです。


ショパンの手の模造品がワルシャワなどで売られているのですが、それを見てみると、そんなに大きな手じゃないんですよね。指も細いし、演奏家だったとしたら、かなり器用だったか、無理していたかだろうなと。女性の手のようでした。


先に述べた通り、ポーランドは、ロシア、プロイセン。オーストリアによって何度か分割され、その後暴れまわったナポレオンがワルシャワ公国を作りますがこれも解体され、列強国がいろいろ国を建てて支配しようとしていましたが、民衆が蜂起し、なかなかポーランドという国を取り戻せませんでした。そんな混乱から逃れたポーランド人が、パリにはたくさんいたのです。中には王族、貴族がいました。そんな亡命ポーランド人にショパンはとても良く受け入れられ、教師をしたり、サロンでコンサートをしたりしていたようです。ポーランド人以外でも、パトロンとして、あのロスチャイルド家もいたようです(ロチルド家)。


また、パリに来て早々、メンデルスゾーン(めんどくさい先生だと思っていた)やリスト(ショパンのことが大好きであちこち引っ張りまわしたが、繊細なショパンはめんどくさい人だと思っていた)、ロッシーニ(ショパンの信頼の厚かった)、シューマン(めっちゃショパンが好きだった)に出会っています。


ジョルジュ・サンドと最初に出会ったときは特に何とも思っていなかったみたいですが、いろいろなきっかけがあってだんだん接近していきます。サンドは2人の子持ちで、男の子と女の子がいます。この女の子の存在が、のちの破局の些細なきっかけになってしまいます。


サンドと知り合ってから、画家のドラクロワともお友達になります。
サンドとの生活は、ショパンがあまりに病弱だったため、冬は気を燃やすので煙の多いパリを離れてノアンにゆき、夏はパリで過ごす、という生活を10年くらい続けるわけですが、その初期のころ、静養のために温暖な冬を過ごすのでマヨルカ島にいって苦労して帰ってきます。でも苦労しても作曲はしていたみたいですね。


で、パリとノアンの二重生活を続けつつ、でもパリではサンドとはべつの部屋に住むという、同棲しない事実婚状態が続いておりまして、その幸せな時にたくさんの作品が生まれました。


別れは些細なこと。サンドの娘がちょっとやんちゃな彫刻家と結婚するんですが、その結婚相手にサンドはお金をとられてしまい、娘と婿と縁を切ってしまうのです。それに対して、その時パリにいたショパンは、ノアンにいたサンドに、やりすぎちゃうん?みたいな手紙を書いたら、サンドが逆上し、「娘のことにくちだしすんなや」という感じで、些細なことで離別してしまいます。サンドはこの後もショパンの健康を気遣う手紙を共通の友達に出したりしているのですが、お葬式にも現れませんでした。


でもショパンはそんなことがあって、さらに体調が悪くても作曲活動を続けていました。もうかなり体調が悪くなってから、新たなパトロンのイギリス人が、イギリスに行こうと言い出します。もうかなりしんどいんですが、イギリスに行き、コンサートをしたり、御前演奏もしたりしました。イギリスには音楽芸術がないと絶望してパリに帰りたいと言います。
帰ってくることができるかどうかというくらいの状態でフランスに戻り、さらに体調が悪化し、でも作曲を続け、「ピアノ奏法」を書き上げようとしていましたが、願いかなわず、39歳でその一生を終えます。最後の作品は親友のチェリストに贈られたチェロソナタです。


ショパンとしては自分の死後自分の作品の書きかけのものや未発表のものは焼き捨てるように言っていたそうですが、支援者がその後まとめ、初期の作品などは、遅い作品番号が付けられて出版されることとなりました。それほどショパンは人気があって、みんな大好きだったんですね。


この本には、ほぼすべての作品についてコメントが付けられており、巻末に出来事とどの作品が作られたかという大変興味深い年表が付けられていました。例えば私が今年弾きたいと思っている舟歌は結構晩年の作品で、直前に幻想ポロネーズが書かれていること(そういえばこの2作品はとても似ているのです)などがわかります。


ショパンの細かい歴史は特に把握する必要はないと思いますが、いつ、どういう状況でどの作品が作られたかというのは、演奏する側の知識として、多少は知っておいた方がいいと、私は思っています。まあ、そんなこと抜きにショパンをショパンらしく弾ければいいのですが、文学の分析と同じく、作者は何を伝えたくてこれを作ったのか、ということに思いを巡らす想像力は、あったほうがいいと思うのです。


ショパンの繊細な性格を知ることもできましたし(曲を見れば繊細な性格であることは明白なのですが)、それに対してリストはブルドーザーだなあとか、メンデルスゾーンはめんどくさい先生だなあとか、ショパンが持った当時の音楽家の印象などもわかってきて、それなりに楽しめました。


作曲家のことを知らなくてもいい音楽は作れます。でも、知ることで、より「らしい」音楽は作れると、私は思います。「その演奏家らしい演奏」は誰でもできるんです。でも「その作曲家らしい演奏」はなかなか難しい。ショパンが左手のテンポの取り方については常に正確であって、右手のメロディについては自由な時期があったり、作曲する時期によっては正確に演奏するようにという時期があったりしたことも、知っておいた方が、ショパンらしい演奏ができると思います。


まあ、何事もそうですが、研究しないで演奏するよりは、研究して演奏したほうがいいです。ちゃんと聴く人にはわかってしまうものです。


次に音楽家の歴史を読むなら、コンサートグレードでやる曲の作曲家にしようと思います。

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