ひまわり畑を夢見るブログ

44歳の時、乳がんの診断。ステージ2。手術して抗がん剤とホルモン治療。仕事と治療の両立の生活記録を残します。

「テンプル騎士団」佐藤賢一

騎士団と言えば、やっぱりドイツの基礎になっているチュートン騎士団、聖マリア修道会の騎士団が有名ですが、そういえばタンプル(テンプルをフランス語読みするとそうなる)ってパリの3区にあったなあと思いだし、テンプル騎士団て名前は聞いているけれど実際はよく知らないなと思い、この本を注文してみました。著者は中世ヨーロッパの本をいくつか書いているらしく、もしこの本で当たりな著者さんだったら、引き続き買ってみようかなという思惑もありまして。


本の最初は、1300年代の初めのほう、テンプル騎士団が異端審問で逮捕される顛末から始まります。って。テンプル騎士団は修道士で、十字軍の騎士団じゃなかったでしたっけ?というので読んでいるこちらがおろおろする始まりでした。結構な人が火刑に処されたんだそうです。


でも、ヨーロッパからエルサレムまでの各地に網を張って発展していたテンプル騎士団がどうして異端なんて…。男色に走ったとか、キリストの像をなめたとか、そういう何とも馬鹿らしい理由で逮捕されて処刑されてしまったようです。


その後、成り立ち、戦い方、勢力の拡大、経済力の拡大、そして彼らが嫌われるに至る場面までの歴史が語られます。


始まりは12世紀初頭、もともとエルサレム巡礼に向かう人たちの保護のためにたった9人で設立された騎士団だったんだそうです。そのうち参加者も増え、修道士騎士団として認められ、武功をあげればお城をもらったり、守ってもらえるのだからと土地を与えられたり、モノを与えられたりして、気が付くと、ヨーロッパからエルサレムの間の各地に、テンプル騎士団の領地(支部)ができていました。十字軍を戦った騎士たちなので、ほかの騎士たちとも共同して戦ったりもしたのですが、そうした十字軍が遠征に持っていくお金を預かる役目をしていたというのが、後々破滅を招くことになります。
戦争にはお金がかかるので、参戦者はお金を持ってエルサレムに向かうのですが、当時は紙幣はないですから、金貨とか銀貨、結構重いです。でも、それをたとえばローマで預けて、エルサレムでまた金貨に交換出来たら、重いお金を持ち歩かなくて済みます。各地に支部があり、領地や教会信者からの税金でそこそこお金を持っていたテンプル騎士団は、そうした都市銀行みたいなことができたのですね。
ちなみに、金貸し業はキリスト教ではよくない仕事とされていました。なので、中世ヨーロッパでは金貸し業はユダヤ人の役目で、なので、嫌われたし、お金も持っていたのでした。
テンプル騎士団は、多少は利子を取ってはいただろうけれど、目的を、戦地へのお金の代理運搬をしているということで、そうやって遠征軍からお金を預かり、支部で換金するというシステムを作ったのです。
各地で武功をあげて、お城や領土を持っていたテンプル騎士団ネットワークは、都市銀行のネットワークみたいなものですね、それなしでは経済が回らないというくらいにまでなります。お金を持っているから、政治的にも発言力がついてきたりします。自分たちの土地や領地も持っているから、しかもそれは教会権力の下にあるから、税金も直接入ってくるので、収入もある。


13世紀後半には超国家的な組織として成り立ち、戦争を生業とし、金融業やその他いろいろもやりながら、教皇に認められた修道会騎士団として、十字軍を戦っていましたが、世はもう十字軍の時代ではなくなってきます。そうした時、彼らはどうするか。
ほかの国から見たら邪魔なのですよね。お金持ってる、ネットワーク持ってる。邪魔、脅威、危険とみなされるようになってしまうのです。この作者はそれをファントムと書いています。


まあ、最終的には、フランス王が、まずローマ教皇をフランス人にしてフランスの味方をさせ、テンプル騎士団をフランス支配下に置こうとし、それを教皇が許さず、そうこうしているうちに教皇庁がアビニヨン(フランス)に移ってきて、フランス王に反逆できなくなってしまう…さてそこで、自分たちの領地を持つことを考えたチュートン騎士団(プロイセン)や聖ヨハネ騎士団(ロードス島)とは異なり、テンプル騎士団は(もともとキプロス島が本拠地だったのだけれど、キプロス王からは出て行けと言われていた)何もしなかった。何もしないで、ヨーロッパに一大ネットワークを持つ金持ち集団となると、薄気味悪い。恨まれないわけがない。戦争をしていてお金がなかったフランス王は特にそうだった。
異端審問とは、教皇に認められたいくつかの修道会の修道士が、そういう人を糾弾して、裁判のようなものにかけて、神に誓って嘘がないことを告白させ(拷問で罪を告白してもそれを取り消すことが一番の罪とされ、即火刑とされました)、異端と判断されれば、世俗権力の手に渡されます。ここ大事。世俗権力はつまり王様とか、政治家とか、そういう人たち。じゃないと処刑できなかったんですよ。魔女裁判や魔女の処刑は教皇庁や教会はかかわっていなくて、世俗権力がやってきたことです。聖職者は殺人できません。


ここでもびっくりなのが、処刑された人の灰や体の一部をお守り代わりに持って帰る人がいたということですね。グロいですね~。


話は飛びましたが、フランス王がテンプル騎士団の持つ財産に目をつけて、一斉に異端審問にかけるように仕向け、その間にテンプル騎士団の支部を襲って、財産目録を焼き捨て(だって誰がいくら預けてるかわかっちゃうじゃないですか)、お金を持ち去り…うわ、フランス王極悪ですね。


そうして、テンプル騎士団は異端のかどで裁判にかけられ、中には生き延びたものもいますが、再びテンプル騎士団を築いた人たちもいましたが、興隆せずに、失われてしまったのです。


たった200年の栄華でした。でも彼らは騎士でしたからね、基本、戦争屋さんです。彼らは強かった。神に仕えることを誓った修道士にして騎士、神のためなら死ねるわけで、死を恐れない戦い方で、次々に強敵を破っていったんだそうです。そりゃそうですよね、守るもの、失うものがないんですから、特攻ですよね。
そんな強い騎士団も、金の亡者フランス王フィリップ4世によって、異端とされて解体されてしまうわけです。当時のヨーロッパの勢力として、国を超えた権力を持っていたのは、皇帝と教皇ですが(皇帝とは神聖ローマ帝国皇帝、単純に言えばドイツの母体となる小国群をまとめていた皇帝)、フランス王も負けてなかった。どちらの権力も弱体化していて、フランス王やイングランド王のほうが力をつけてきた時代でした。辺境の地は徐々にキリスト教化が進み、十字軍の必要もなくなってくる。そんな時代に、賢く立ち回らなかったテンプル騎士団は、恐れられて、世俗的な王権によってつぶされてしまったのです。


ちなみに聖ヨハネ騎士団はマルタ騎士団とわかれて、それが現在でも「ロードス及びマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会」として残っています。世界的政治的発言権も持っています。騎士団というより修道会で、病院関係では有名なんだそうです。独特のマルタ十字という十字架を目印にしていますね。
チュートン騎士団のその後は言うまでもなく、プロイセンになり、ドイツ帝国を築き、ベルリンに中央が移動し、現在のドイツの基礎をつくりました。騎士団として残った部分は修道会となり、チャリティー団体と医療施設になっているそうです。


読むのにちょっと時間がかかってしまいましたが、読みやすかったし、著者の豊富な中世ヨーロッパの知識があふれ出ていて、気に入りました。わかりにくい中世ヨーロッパを、鈍い頭の私にもわからせてくれるかもしれない。またこの作者の本を買ってみようと思います。


次は日本文学に戻ります。

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