ひまわり畑を夢見るブログ

44歳の時、乳がんの診断。ステージ2。手術して抗がん剤とホルモン治療。仕事と治療の両立の生活記録を残します。

水道の工事とか、家の工事とか、蔵の中とか。

午前中は暇だったんですが。
なので、パジャマのまま仕事してました。12時になってから、着替えて着替えて。


1時に大工さん到着。年末に家の片付けを手伝ってくれるといっている…。ありがとう…。母が年明けに来るのでそれまでにできることはやっておきたいけれど、なにせ8畳間がいっぱいになるくらい荷物が出ているので、それを何とかしないとと思っていたんです。一人では無理、バカでかいテーブルとか、母の茶碗とかいろいろある…。


その後、1時半ちょうどに先日来た郷土史研究家の方と、この一帯のことをよく知っている大きなおうちの方が来て、今日は本格的にうちの蔵を見たいと。
ということで私も昨日買ったGパンをはいて、作業できそうな服装で待っていたんですが。


すぐ終わると思ったのでお昼時間を1時半からにしておいたんですね。
ですがですが。
なかなか…。終わらん。
蔵の中は実はうちの一族の一人が昭和23年ごろに価値のあるものをすべて持ち出してしまい、残っているのはそれ以後にこの家にいた人のものだけです。というか。姉と私と妹の学習参考書や、教科書、子供の時描いた絵などなど…。ランドセルも3人分ちゃんとありました。
おじいちゃんがたくさん写真を残していたと思ったんですが、どこにもない。
その代わり、おじいちゃんが軍隊で偉くなった時の、皇室の印鑑入りの賞状とその時の勲章みたいなものが出てきた。
でもね。私の記憶なら、金の勲章があったんですよ。見たことがあります。サーベルもあったし、おじいちゃんの取った海軍関係の写真もいっぱいあった。海軍マントもあったはず。それらがみんななくなっちゃってるのね…。
やっぱり盗まれたのかな…祖母が売ってしまったのか…。


郷土史研究の方は、なんかいろいろ貴重な(金目のものではない)ものを見つけられて、今日もお持ち帰りになりました。
前回持っていってもらった写真や書類の中には、第一回国勢調査の時の写真があり、それで私は初めて曾祖父の顔を拝みました。うーん。似てない。
第一回の国勢調査大正10年のときは結構大騒ぎで、調査員は村や町の有力者がやったのだそうで、うちの曾祖父もそこに加わっていました。
曾祖父のことや、祖父のこと、それから曾祖父の一人目の息子のことなどは、他の家の古文書??から出てくるらしいです。そこで知ったのは、曾祖父の長男は、曾祖父が手を尽くして村にフォード製の消防車を購入した(昭和15∼6年くらい)その消防車にのってどこかに行くとき、事故に遭って亡くなったのだそうだ。その時の新聞を持っているお宅もあって、そのことがわかりました。早くなくなったというのは聞いてましたが、そういうことでしたか…その方、陸軍の訓練を受けて帰って来たばかりだったんですよね。


曾祖父は町の有力者として、いろんなことに力を尽くしたそうです。道路を広げたり、町のごたごたを収めたり、先の消防車を買うときもかなり出資し、近くの事業立ち上げの管財人みたいなこともやっていたり。


蔵をいろいろ見てもらいましたが、我が家の屋号が書かれている明治40年代のいろいろな養蚕の道具が出てきました。曾祖父は銀行の支店長か店長か何かやっていたみたいで、その傍らで家の人が養蚕をやっていたみたいです。


それで、郷土歴史科の調べでは、私たちが思っていた、明治5年にここに転居したというのは実は違っていると証明されてしまいました。もうちょっと遅かったみたいです。明治40年代かもしれないと。
確かに建築は明治2年なんですが、その3年後に買い取ったという言い伝え?記録?はうちにあるんです。だけど、土地の台帳を見ると、少なくとも明治20年代の後半までは、家を建てた工務店のものになっていました。
そうなんだ~。
別のところに住んでたんだ…。知らんかった…。


証明したいので今度法務局行って閉鎖登記簿を調べようと思います。


他にも、祖父のこともいろいろ調べられたみたいで(古い記録には残っているらしい)、うちは、機織り機を3台持っている家だったそうです。まあ確かに、この広さならおけるわな…。軍籍を抜けた祖父が、機織り??とは考えにくいですが。


蔵の中をあらかたみてもらって、30年ほど入っていなかった蔵の全貌がわかりました。昔のアイロンとか、いとまきとか、いねこきの機械とか、木製の風呂とか、いろいろ出てきました。五右衛門風呂もあったはずですが、やっぱりいろんなじいちゃんの遺品とともに売られてしまったようです。


祖母の桐ダンスがあって、そこには祖母の着物がきれいにしまってありました。祖母の女学校の卒業証明と、教員免許書もありました。これは知らなかった。
祖母の箪笥の中から、白い太いひもが出てきたんですけど、郷土史研究家の方は、昔は一般的にお葬式は親族は白い衣装を着て、その時につけるひもなんだそうです。今では皆さん黒装束ですが、祖母がまだ若い頃は、白装束で、そういうものをちゃんと代々持っているというのは、しっかりしたおうちなんだそうですよ。


それから、Wikipediaに載ってるうちの曾祖父の甥っ子少佐ですが、うちで葬式を出したのでしょう、陸軍なんとか大隊一同とか、陸軍なんとか少将とかの木の札がいっぱいありました。今はお葬式の時花輪につける人名は紙に書いていますが、昔は木の板に書いて花につけたみたいです。おそらくその時に提灯を下げたものの屋根も残っています(大きな家が葬式を出すときは、わざわざそういう屋根を木造でこしらえるんだそうです)。


家の財産は一族の一人がみんな持っていってしまったんですが、一つだけめちゃくちゃ古い木箱があって、その中から昔(祖母の時代)の教科書がたくさん出てきました。英語とかもあったんですね。残念ながらその中はネズミの糞がいっぱいで持ってこられなかったんですが、昔の本の作り方で作っていて、女学校で勉強したであろう教科書と、いくつかの日記が出てきました。日記は貴重なので読んでみようと思います。


あと、うちの昔の家紋も出てきました…。なんだ、家紋、違い鷹の羽じゃなかったんだ…。もう遅い。でも、お墓は違い鷹の羽なのでそれでいいです。


どなたかの結婚式の写真が出てきましたが、まさかこれうちの両親??わからんけど、今度母がきたら聞いてみます。新郎は鼻の下にちょび髭をはやしていて、時代的には大正時代なんじゃないかと思いますが…。


いくらか資料を出してきたので、頑張って読み解こうと思います。
相変わらず金目のものは何もなくて、本当に貴重なものが持ち出された後の、さみしい蔵でした。


そのあと水道屋さん。パッキン取り換えで4400円。まあ出張してもらったんだから損くらいはするわな。


やっと温まれる~。ご飯食べよう。

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