ひまわり畑を夢見るブログ

44歳の時、乳がんの診断。ステージ2。手術して抗がん剤とホルモン治療。仕事と治療の両立の生活記録を残します。

病院行って、不動産屋に電話、そろそろ曲決め

朝はすごく眠くて。そういえば昨日の夜ビールを2本飲んじゃったんだ。
しんどいですよね~。
ぐだーっとしながら仕事。
お昼時間に病院に行こうとしていたが、寒すぎて外に出られない。電話して15分遅れるわと。


完全防寒、私の持っているコートの中で一番保温性のあるもこもこのダウンコート、ちょっと長めのブーツ、マフラーに帽子、あったかセーターに厚い生地のスカート。


自転車かっ飛ばして15分!
予定通り15分遅刻。
いつもは私は最後の診療になる(先生も解放されるから、最後にいろいろお話したいらしい)のですが、今日は初診の人がいて、私は最後から2番目。最近土地の事で忙しいと思ったら、とうとう郷土史研究家がやってきたよ~みたいな話を聞いてもらいました。


昨日夜いろいろ調べたんですが、蔵にあったうちの家から出た軍隊の偉い人、少佐まで行った人なんですが、Wikipediaに記載がある…。
戦争から帰ってきたところまで書かれているけれど、いつどうやって死んだのかはわからない。でも神兵団事件に関わった偉い人にかわいがられていた人らしく、結構お偉方とつながりはあったみたいです。陸軍で航空部隊って、ん~イメージわかないけど、確かに東京の陸軍の跡地には飛行場もあったし、仙台で訓練をうけて東京にきていたみたいだけれど、結局どこにどうやって出撃していったのかはわからなかった。
うちにある手紙というのは、幼年学校の頃(いわゆる中学校)は、うちの曽祖父(その人にとっては叔父さん)に、幼年学校の校長から送られた成績表だった。で、校長先生から直筆か、うつしか、ともかく試験が終わり通過したので、いつからいつまで休暇をやるから、自宅ではよく休養し、いつまでに幼年学校に帰るよう手配をしてほしいという親心的手紙でした。


その方が、陸軍中央幼年学校(高校みたいな)にいくと今度は自分で手紙を書いてきて、いつどこからどこに移動し、何とか殿下に拝謁賜ったとか、その時代ならではのことが書いてありました。
第二次大戦で陸軍航空部隊として働いていたようですが、まあこの辺はWikipediaに詳しいし、うちにはそれ以上の資料がなかったから調べませんでした。
どうやらうちの曽祖父は、その甥っ子の後見人になっていたみたいですね。だからたぶん、曽祖父の親の戸籍を取ってくれば、どうしてうちの曽祖父が後見人になったかわかるかも。


役場行って来ればよかった~。まあでもまたそういう調査は余裕のある時にしましょう。今は土地の事。曽祖父の関連者の事。


それで、地元不動産屋さんに土地の価格の参考値を出してもらうように交渉しました。売れないって言ってましたし、そういう文言も書いてくれるそうです。


あーそれで、まだ書類かけてなかったなあ…今日はピアノをやらないとどうしようもないので書類は後にしてピアノやりますが、昨日は結局調べものしていてできなかったので、今日こそはやります。


ヴァイオリンの曲決めないとと思って、伴奏者に相談したら、候補に挙がっている曲はみんな弾いたことがあるって…。心強い。


さて頑張りますかね~。

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