ひまわり畑を夢見るブログ

44歳の時、乳がんの診断。ステージ2。手術して抗がん剤とホルモン治療。仕事と治療の両立の生活記録を残します。

人生で一番危機的状況だったとき

そんな日のことを思いだしていました。
私は2005年からパリに住んでいました。音楽学校の学生として渡ったのですが、合間にやっていた教師業でかなり儲けることができて、自分で留学費用のすべてを出して7年暮らしてきました。
私くらい数学ができて教えられる人がいなかったみたいで、あと、インターナショナルスクールの生徒たちに日本文学を教えたりして、結構需要があって、いつも私には生徒がいっぱいでした。土日もなく教えてました。音楽活動もやりながらだから、ほとんど休みなしで頑張ってました。


最初は日本人の帰国子女の勉強を見ていたのですが、私には家庭教師の経験がなく、家庭教師してもらった経験もなく、塾に行った経験もなく、だから料金の相場がわからなかったんです。時給15ユーロで生徒を3人くらい教えていたことがあります。
それでは全然もうからないし、私の学歴でその値段は低すぎました。あとで親御さんのほうから値上げを申し出てくださって、最終的には音楽活動を含めて月収30万円のラインまでは行けたんですけど、そうなる前の話です。まだ教師業もレールに乗る前の話。


銀行にお金なし。お財布には2ユーロ。クレジットカードがあるから使ってもいいんですが、日本の銀行口座にもお金はなし。これで次にお金が入ってくるのは2週間後という危機的状況を、パリの真ん中で一人で過ごしたことがあります。2ユーロをどう使うか、一所懸命スーパーをめぐって考えました。何が一番栄養効率がいいか、何を買えば2ユーロで2週間食べて行けるか。


250円くらいです。それで2週間生活するなんて。
結局、一袋40サンチームのポテトチップスと、一番安いチーズを買いました。ポテチは一度にたくさん食べないので、一袋買っても1週間は持ちます。チーズもあちらのチーズはしょっぱいのでたくさん食べられません。なのでちびちび食べていました。


どうしようかなあ…いろいろ考えました。パリで一人でやっていくと言って親の反対を押し切って出てきてしまった以上、親から送金してもらうわけにもいかず。大家さんは夏休みでどこか田舎に行ってしまいましたし、ご近所さんもバカンスで田舎の方に。家庭教師の教え子たちも日本に帰国。友達もたいてい帰国してしまい、頼れる知人はいませんでした。


小麦粉と砂糖くらいはあったので、パンケーキとかも焼いていましたが、2週間を2ユーロで過ごすことにはやっぱり無理があると思いなおしました。


そこで、ストリートパフォーマンスを始めたのです。
当時はまだゆるかったのですが、今は路上演奏するにも資格とか許可が必要です。あと、パリのメトロとかに乗り込んできてさらっと弾いて小銭を稼いでいるのも、黙認されているけれどあれは乞食と同じ扱いです。
そういうことを知らずに、とりあえず近くのヴァンセンヌ公園まで歩いて行って、木陰でヴァイオリンを弾き始めました。ケースを開けて、なけなしの小銭を放り込んで、弓が風で飛んでいきそうな日だったのですが、ビートルズとか演歌とかバッハとか何でもやりました。親切な日本人が、演歌をやったらお札を入れてくれました。リクエストに応えたら結構くれるんですね。
今は公園で演奏するのは禁止なんですが当時はまだゆるかったみたいで、私が演奏していたらギタリストが参入してきて一緒にセッションして、もうけは山分けみたいな感じになったりもしました。
3回ほどやったでしょうか。おかげで2週間を誰に頼ることもなく過ごしました。


人生の危機的状況って、実は今も相当危機的状況なんですが(セミナーの準備が終わっていない!)、何とかなるんだなあと。パリという土地柄もよかったんだと思います。


以後、夏休みは収入が減るけれど、ちゃんと貯金して夏を越せるようになって、新作のヴィオラを買えるまでになって、音楽学校の学費も全部払って、2012年までパリ生活を堪能していました。貧乏だったけれど、私にとってはこの世の天国でした。やりたいこと全部やっていましたから。音楽をやって、数学や文学を教えられて、それでお金をもらって、おいしいもの食べて、何より大好きなパリに居る。


まあでも、普通の人にこんな冒険は勧めません。本当は1年で帰ってくる予定だったんですが、教師業でわずかに稼げていたので、何とかなるかな~と思って、気が付いたら7年。
世の中何とかなるものなのだと思いますが、本当にお勧めしません。
私は運がよかったんだと思います。今でもパリ時代の方々には感謝をしております。そして今でもパリが大好きです。


というわけで、今も危機的状況ですが、私が人生で一番危機的状況だったときの話でした。

×

非ログインユーザーとして返信する