ひまわり畑を夢見るブログ

44歳の時、乳がんの診断。ステージ2。手術して抗がん剤とホルモン治療。仕事と治療の両立の生活記録を残します。

昔々その昔

昨日の夜は母と昔話をしていました。
母は大学で、アイヌ文学に興味を持っていて、もし研究するなら、アイヌ文学をやりたいといっていました。母の世代(戦中、戦前)の人たちは、アイヌ語というのは、東北の方言の一つだと思っていたのだそうです。それが、文字も持たない民族で、民族区分としても日本人とは異なっており、言語区分も日本語やロシア語とは異なっており、独特の精霊の話や霊的な話が伝わっているところが面白いのだそうです。


私はゴールデンカムイをみてアイヌにほれ込んでしまいましたが、母と共通の話題だったので、話が盛り上がって11時くらいまで話していました。


文字を持たない民族があったことは母には珍しかったらしいです。
でも母が言うには、母の祖母、私の曾祖母に当たる人は、文字の読み書きができなかったらしいのです。田舎の農家の出身ですから、子供のころから農業の手伝いで、学校には行っていなかったという(義務教育ではなかったような?)。明治20年前後の生まれだそうです。私は森鴎外や夏目漱石を想い浮かべていて、当時の日本人は教育水準が高いものと思っていたのですが、曾祖母は自分の名前すら書くことができず、選挙に行くときには、代筆者が一緒に行ったんだそうです。


それってたった100年前のことなんですよね。びっくりです。
祖母は文学的センスのあった人で、それが母に遺伝しているようですが、その親が、文字の読み書きができないというのは驚きです。教育勅語の後だと思うんですが、田舎にはいきわたっていなかった、女子は文字など読めなくていいという風潮があったようです。庄屋さんとか、商人さん、武家さんの子供たちは学校に通いましたが、田舎の農家の子供たちは家のことで精いっぱい。どうやって暦を読んでいたんだろう、どうやって正月がいつなのかを知っていたのだろうと思ったのですが、そういうことは、村の偉い人がみんな教えてくれていたんだそうです。


母は、小学校に相当する国民学校というところに1年生で入学して、3年生で終戦を迎え、その後国民学校は小学校になります。国民学校の前は、いわゆる小学校の子供たちは尋常小学校という名前の学校に行っていました。最近亡くなった大叔母は尋常小学校に通っていました。尋常小学校は義務教育が4年くらいで、国民小学校もそのくらいだったんだそうです。田舎の人は、それが終わるとすぐに働きに出ていたらしいですから、12歳くらいでもう働いていたのですね。その上に高等学校があり、高等師範学校があり、別の道に行くと予科があり大学があるという教育制度だったそうです。詳しい教育制度について母から聞いたことなので正確ではありませんが。


はあー。母は歴史の生き証人ですね。国民学校に行っているから、記紀を暗唱させられたりもしていたらしいです。


まだ85歳だし、今度卒業したら、大学院でアイヌの研究やったらいいのにと思っています。アイヌにもいろいろあって、文化が若干違います。でも口伝えで伝わった物語は、どの世界のタイプにも分類できない面白さがあると思うのです。共通点があればそれはそれでまた面いと思うし、まったく共通しないようであれば、どういう風に違うのか、比較したらいいと思うのです。


私はエッダやサガ、ケルトの伝承などを読んでいますが、この知識と、母のアイヌの興味を合わせればいい論文が書けると思います。北方民族の文学比較論みたいなことができるんじゃないかなあ。


いいなあ。私も大学に行きたいなあ…。

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