ひまわり畑を夢見るブログ

44歳の時、乳がんの診断。ステージ2。手術して抗がん剤とホルモン治療。仕事と治療の両立の生活記録を残します。

「緋文字」ホーソーン

ひもんじ、と読むんだそうです。母が、大学の世界文学の授業で出てきたというので、私も読んでみました。母は若い時(60年以上前?)に読んでいるらしく、内容をちゃんと覚えていまして、ネタバレギリギリまで話の筋を教えてくれました。それがなかったら読了できなかったと思います。なにせ、読みにくい…。


最初に、主人公が牢獄から出てさらし者になっている情景が出てきます。清教徒の厳しさというのをひしひし感じました。この主人公は,不義の子を身ごもって出産しました。その赤子と一緒に、牢獄の前の処刑場にさらしものにされ、皆に白い目で見られ続けるという罰があるのだそうです。


ああ清教徒って怖い。
1800年代初めのボストンでの話です。
私、カトリックだから、考え方や罪に対する判断がゆるゆるです。プロテスタントの方が厳しいんです。この時代の清教徒の厳しさというのがよくわかります。


そしてこの主人公女性は、罪を犯したしるしとして、緋色のAの文字のペンダントをつけ続けることになります。それで、その社会の片隅で、ひっそり子供を育てて生きていくのです。


父親は名乗り出ず。名乗り出たら同様にさらし者にされます。一生罪を背負って生きていかなければなりません。だから、名乗り出るのは危険です。地位も立場も失い、仕事も失います。生きていくすべがなくなってしまうのです。


牢獄から出てきて7年間のことが書かれています。主人公女性は刺繍の才能があったのでそれで身を立てていくのですが、最初は世間の目が厳しく、集会で彼女の周りに近寄る人もいなかったそうです。


娘の純真さ、キラキラ光る、生命感あふれる様子と、罪という重苦しいくすんだ色の対比が非常に美しく、この作家自体も罪についての考え方に厳しいものがあったことがうかがわれます。


この物語には2人の男性がかかわってきます。最初の一人は、主人公が牢獄から出るときに一人で緋色の文字をつけて生きていくことでいいのかと厳しく詰め寄ります。相手の男の名を言えと詰め寄っても、主人公は答えません。彼女は一人で緋色の文字をつけ続けたのです。


もう一人、身体の弱い牧師さんが現れます。彼は本当に善良な、まじめな牧師なのですが、病弱で、先に出てきた男性が医者だということもあり、一緒に暮らし始めます。先の医師の男性とこの牧師の関係性も非常に不思議なものなのですが、なぜ不思議なのか、最後にわかります。


この物語では、明確に、悪魔が描かれています。悪魔は復讐を遂げると役割を終えて死んでしまいます。彼は天国には行けないのだと、暗に書かれています。なんだか清教徒的厳しさをここでも感じてしまいました。救いはないのか。


全体的に明るい日の差さない薄暗い感じの物語ですが…。


私は新潮社版を買いましたが、なにせ読みにくい。本文の80%が何言ってるかわからない感じでした。苦痛でした。なかなか話が進まなかったです。


ところで、この本の最初にさらし者にされるシーンがありますが、母に聞いたら、そんな場面は出てこなかったとのこと。いろいろ調べてみたら、この導入の「獄舎の入り口」は後から付け加えられたものらしいです。


教養のために読むのはいいと思いますが、本当に、清教徒の厳しさが嫌になりまして、一冊読むのがつらかったです。同じキリスト教と言っても、カトリックとプロテスタントでは、全然違うんですよね。考え方に自由度があり、個人の信仰を尊重するカトリックに対して、聖書絶対主義、聖書解釈の固定、罪を絶対に許さないプロテスタント、どっちがいい悪いの問題ではありませんが、私は清教徒のような厳しいやり方は、なじめません。思考が狭いというか、考える力を奪われているというか。


でもそんな清教徒の都市であるボストンに私はいたことがあるんですけどね。その時はそんな厳しさは感じませんでした。信心深い人は沢山いましたが、時代によって状況は変わってきたんだろうなと思います。ボストンはアメリカでもまだ信心深い人が多い方だから、当時割と犯罪率も低かったのですが(夜中コーラを飲みながら出歩いていてもOKでした)、今ではどうなんだろうな…。


次は、アイヌの本。買っちゃいました。母も読みたいと言っているので、早く読んで母に貸してあげようと思います。

×

非ログインユーザーとして返信する