ひまわり畑を夢見るブログ

44歳の時、乳がんの診断。ステージ2。手術して抗がん剤とホルモン治療。仕事と治療の両立の生活記録を残します。

「謎解き「悪霊」」亀山郁夫

更新は朝ですが読み終わったのは20日夜です。


江川訳・ドストエフスキー「悪霊」を読んでから、この本をさらなる理解のためにと思って購入したのですが。


いやいやいや。大混乱に巻き込まれてしまった。
こんなディテールにこだわって、本質的なところを見逃しているんじゃないか?ものっそどうでもいい一文を拾い上げて、何の象徴とか言っている場合じゃないぞ??普通たいていの人は「悪霊」を一読しただけではこのテーマがわからないと思う。それを教えてくれるヒントみたいなことがあったってよかったんじゃないか?


創作ノートからいろいろ引いてくれているところはすごく助けになり、それぞれのキャラクターの役割というのがより明確によくわかりました。ドストエフスキーは物事をはっきり書かず、ある登場人物が死んだのかどうかさえ明示されないで、混乱に陥ることがあるので、それが明確になっていてだいぶ助けになりました。


何か所かある、明らかなミスリーディングの一つをあげておきましょう。
「そもそも、マリアとの結婚には、どこかサディズムのにおいのする傲慢さが潜んでいた。その傲慢さによって満足を得たかった、と言ってもよいだろう。だが、第二部第2章「夜」つづき、の場面で、マリヤから「フクロウ」「偽公爵、オトレーピエフ」とののしられた彼の心に一瞬憎悪が燃え上がった。その憎悪の正体は、文字通り、悪魔的な「傲慢」である」


スタヴローギンは、神と人間のどちらからも切り離されてしまった存在で、いろいろなことをやってみても、感動も、後悔も、感激、憎悪も得られず、沸き上がるのは恥辱だけだったんです。マリヤとの結婚は恥辱を自分に課すことで快楽を味わうためのものであったと私は見ています。でないと、この作品の時代性や、ロシアにおけるキリスト教信仰、ロシアの村社会ということにつながってこないんです。
憎悪を覚えるような感情はスタヴローギンにはもうなかった。頭のおかしな女が何か言っているだけで、憎悪を覚えるとは考えにくい。たかだか馬鹿にされたくらいで何か心の中で燃え上がるような熱さはもう持っていないんです。


そういう無のスタヴローギンが、全体の陰鬱な雰囲気を醸し出しているんじゃないですかね。


そもそもですよ。
この「悪霊」という物語の中に、「悪霊」という言葉はほとんど出てこない。「悪魔」はたくさん出てくる。亀山先生は悪魔と悪霊を混同しているところに問題があると思うのです。これらは別物です。悪魔は、人格みたいなものを持った、悪いことをする、堕天使ですが、悪霊はどちらかというと死んでなお漂っている恨みを持った霊という意味で、使い分けられていると、少なくとも江川版ではそういう風に読めます。


では、誰が豚に入り込んで湖に落ちて死んだのか。これは何通りか説明ができると思います。悪霊というのはロシアに張り付いていた歪んだ時代精神なんじゃないかと思います。それが、とある事件をきっかけに、あるべきロシアを取り戻す、そういうことじゃないかと。うーん、漠然としていて書けないんですが、そういう怪しい空気がロシアには合ったんじゃないでしょうか。そこから浄化するために、殺人が起こる。


それから。「告白」について。これは私は3種類の原稿があることは知らなかったのですが、江川訳では、本編の最後に書かれていて、本当だったら第2部第9章に入る予定だったことが書かれていました。これについても、読み込みすぎというか、ここに答えは簡単に書かれているわけです。自殺したかわいそうな少女は、罪ゆえに、または凌辱されたことゆえに自殺したわけではないのです。神様と人との関係から外れてしまったがゆえに、生きることをやめたのです。そう書かれているじゃないですか。


でも、一番、ドストエフスキーがどうしてこの物語を書いたのかがわかるのは、この本にあった、皇帝に献呈するときに書かれた文章ではないかと思います。それは、亀山先生が以下のように意訳しています。


「ネチャーエフ(「悪霊」の下敷きになっている暗殺事件の首謀者)とは、そもそも「ロシアの文明全体が「ロシアの生活の血縁的な独自の原理からいちじるしく遊離した直接の結果」であるということ、次に、私たちの時代のもっとも才能ある代表者たちは、ロシアにはロシア固有の発達の道があるということ、そしてその条件のもとで、ロシア人が世界に向かって光を発しうる力を持つという信念を忘れてしまった。「民族としての自己の世界的意義」という「傲慢さ」を持つことなしに、民族は偉大な民族たり得ない、また全人類のためにも何がしかのことをなしえないという「歴史的法則」を忘れてしまった(中略)」


ロシアの生活というのは、ロシアの土着信仰と、ロシア正教の結びついた、農民と結びついたロシアの社会のことを言っているのだと思います。古いロシアであるステパン氏、新しいロシアであるピョートル、ともに、人間であり人間としての欲望に忠実に生きているし、喜びや悲しみを感じたり、目的を持ったりしている。ピョートルはネチャーエフだったとしても、ネチャーエフが想定した、とある組織の親玉、「悪霊」ではスタヴローギンは、傲慢たりえない「空洞」なんですよね。恥辱以外の欲望を持たない。空虚な存在。神と人間の関係性から離れてしまった、孤独な魂。熱くも冷たくもない存在。だから、放蕩を尽くし決闘を繰り返し、形式だけ神の言葉にのっとって「殺さず」を守り抜き、流れで自分の妻が殺されることに対して何か感じることを期待しつつも何も感じなかった。そんなロシアになっていくんじゃないかという心配があったんじゃないかと、私は思っています。新人類ですかね。ロシアとして誇れる、熱くもなれ冷たくもなれるロシアでないといけないと思って書かれたのではないかと。


私なりの解釈を書こうとするとたぶん10日くらいかかってしまうので、それはやりませんが(解釈を書けるほどドストエフスキーを読んでいないんですが)、背景にあるロシアの歴史やキリスト教、土着信仰、ロシア独特の「民衆」という悪霊、そういうことを考えてみると、私が上記で述べたことはあながち遠くないのではないかと思ったりします。

この「謎解き」では、「ファウスト」との比較が随所に見られたので、「ファウスト」はまた読んでみたいと思いますが、「ファウスト」って、言われるほど名作なのかなと私は思ってしまいます。救われるなんてご都合主義は許されないと思っていますし、女性の扱いはひどいものだと思ってしまいます。

でもその前に、また魔女ものに戻るかもですね。ドストエフスキーは大盛コース料理ばっかりなので、しばらくもういいやって感じです。

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