ひまわり畑を夢見るブログ

44歳の時、乳がんの診断。ステージ2。手術して抗がん剤とホルモン治療。仕事と治療の両立の生活記録を残します。

「ケルトの水脈」興亡の世界史シリーズ

  
前にケルトの本を読んだ記事を書きましたが、今回は本格的に、講談社学術文庫から出ている、「興亡の世界史」シリーズ「ケルトの水脈」を読んでみました。

この本は、主にブルターニュのケルト人に関することが中心になって書かれていて、ケルトが広くトルコの方やボヘミアの方、スペインに広がってどうなったかということは最初に触れられているくらいです。先日紹介した「島のケルト」のほうの説明が多いです。

島のケルトと言っても、ブリテン島だけをさすわけではありません。現代唯一残っているケルト文明の末裔はアイルランド人で、実はそちらからフランス西部のブルターニュやノルマンディに人が渡ってきたので、このあたりの人も島のケルトでした。ノルマン人はゲルマン人ですから厳密には違うんですが。

さて前に書いた私の記事には結構間違いがありました。というか、浅かった。やっぱり図説本は簡略化して書かれているんだなと。いや私の理解が浅かったかなと。

まずケルト人の定義からして間違っています。彼らはもともとインドヨーロッパ語族のある部族ではあるんですが、そして東の世界から広がってきた人たちではあるのですが、人骨で見る限り、紀元前7000年ころから3000年ころまでの石器時代に存在したヨーロッパ人と代わるところはなく、ケルト文化はあくまでも文化的伝播である、というのがこの著者の主張。考古学的な証拠もあるようです。

ですが、ストーンヘンジなどの巨石文明と、ケルト文化にはつながりがないそうです。例えば宗教的儀式を執り行ったドルイド僧はあくまでピタゴラスの申し子である学者集団であって、前5世紀以前には存在しなかったし、キリスト教が入ってくるときに戦ったヒルベニアのドルイド僧や、最近のドルイド僧とは何の関係もないのだそうです。なんだかケルトの司祭的な人たちが、まとめてドルイドと呼ばれているだけで、本当のドルイドは、ケルトの長い歴史のほんの一部にしか現れなかったようです。

じゃあケルト人っていつどこから現れたの?ということになります。それは、古代世界の歴史家たちが、北の方にいる未知の人達の集団をケルトと呼んだことから始まります。だからケルト人が出てくるのは、トロイア戦争が記録された年代と同じくらいの時からです。歴史時代の幕開けからケルトは認識されていたのです。古くて紀元前800年代くらいからでしょうか。彼らは共通する言語体系を持っていたそうです。
ちなみにガリア人というのは、アルプス以北、今のフランスあたりにいた、非ローマ・ギリシャ文化圏の人々です。カエサルの時代(「ガリア戦記」が書かれた時代)にはガリア人の中にケルト人が含まれていると思われていましたが、現在はケルト人の中にガリア人が含まれる説が優勢です。

古代ケルト人のローマ化も、地中海方面の人間が遠征してその土地を征服してそこで繁殖したのではなくて、あくまで文化的なローマ化であって、ケルト人が殺されたり(したけど)、滅ぼされたりということではなかったみたいです。ゲルマン人の大移動もしかり(いやいや、ゲルマン人はちょっと荒っぽく征服民族になってましたけどね)。バイキングの襲来もしかり(いやいや彼らはかなり荒っぽく征服民族になりましたけれどね:そしてバイキングがいわゆる金髪碧眼のおおもとになっているんですけどね!そのバイキングだってもともとはゲルマン人の一派ですしね!)。

文化的な同化があって、ヨーロッパはケルト世界からローマ・ギリシャ世界になり、やがてキリスト教世界になっていきます。つまり、滅んだと思われている古代ケルト人も中世ケルト人も、いなくなったのではなく、ローマ化・キリスト教化されていったわけです。

その方法は、ケルトの神様にギリシャの神様の名前を与えて「名前くっつけちゃえYO!」と言ってみたり、キリスト教が入ってきたときには、ケルト人の聖地に修道院や聖堂を立てて、「これからはこの聖なる土地はキリスト教が守りますよ」と言ってみたり(言ったかどうかはわかりませんが、かみ砕いていうとこんなところです)。あのモンサンミッシェルも、もともとはケルト人の聖地で、ある時大天使ミカエルが「ここに聖堂を立てよ」と修道士の夢に現れて、修道院にまで発達したのだそうです。

先日の記事には全く書かなかったのですが、アイルランドというのはケルトを語る上で欠かせません。アイルランドは現代唯一のケルト文化圏といっていいでしょう。アイルランドはもともとヒルベニアと呼ばれており、キリスト教の中でも、ローマ教会が教会と法王庁を中心とした宗教中心社会であったのに対して、ヒルベニア教会は修道院を中心とした宗教中心社会だったようです。

それから、中世ケルト人というのは、古代ローマによる同化を免れた、「島のケルト」などの古代ケルト文化を継承した人たちのことを言うそうです。キリスト教の流入によっても、それはそれ、民間信仰はそれはそれ、ということで、どっちの神様も祭っていたような人たちのことです。ケルト的な発展というのは見られませんし、歴史上にも出てきませんが、中世ケルト人という概念そのものが最近のことで、中世の歴史書では出てくることはなかったからだそうです(何とか人とか、特定の民族として登場はしていましたが、それがケルト人だということは、のちの研究からわかったことだそうです)。

まあそんなことから振り返って、私がどうしてここまで来たか。
ユングやスクリャービンを読んでいて神秘主義思想を調べてみたくなった→神秘主義思想の本から、魔女狩りが中世後期に行われていたことを知った→魔女の起源はキリスト教以前の土着宗教の神々かもしれない→キリスト教以前といったらケルト!(いまここ)です。

ということで、魔女狩りや魔女とケルトの関係を調べてみました。
魔女というのは昔から一定数存在していたようです。ですがこれは、シャーマニズム的な女ドルイドの流れを引く人たちのようで、魔女ではありますが、魔女狩りの対象になったわけではありませんでした。社会的辺縁者は魔女扱いされていたのはずっと変わらないのですが、排斥されていたわけではなかったみたいです。
そして中世末期の魔女狩りの時代。この本では主にブルターニュ地方のことが書かれていますが、この地では魔女狩りがあまり行われていなかったようです。もちろん魔女はいました。ですが、民間信仰が浸透していて、キリスト教的な思想が強くなく、「まあちょっと奇跡をおこしちゃうおばあちゃんがいたってそんなの昔からだろ?」「それにみんな一回はおまじないのお世話になったよな?」みたいな感じで、告発する数がドイツ南部などのほかのキリスト教の厳しい土地と比較して少なかったのだということです。

ブルターニュやアイルランド、ブリテン島特にウェールズでは民間信仰や俗言が多く残されていて、キリスト教はそれをどうにかして廃止しようと頑張っていたわけですが、それほど深くキリスト教は浸透せず、民間信仰と併存する形でケルトの伝統は残っていくそうです。そして現代にも残っているそうです。


ということで次なる疑問がわいてきます。魔女狩りの犠牲になったのはどういう人?キリスト教徒が悪魔や魔女にしたてたのはどういう人たち?

ということで前々回読んだ上山先生の「宗教と科学」という本を読もうと思います。この本は今度はユダヤ教に焦点が当てられています。キリスト教の悪魔は、ユダヤ教の敵対宗教の神様が多いのです。有名なのはバアル神ですかね、なんかハエの神様にされてしまいましたが、昔はユダヤ教の唯一神よりも知られていた神様だったようです。

でも、買ってみたらめっちゃ分厚い本だったので、ひるんでいます。長い本が読めないたちなので、挫折するかも…読みかけのユングさんを読み直そうか、それともケルトに影響を与えたスキタイの本を読むか。それともグノーシス主義の本を読むか。何にしても今年のマイブームはヨーロッパですかね。あー惜しむらくは、私がヨーロッパにいたときに、こういうことに興味を持てば、実地調査がたくさんできたのに!ということです。

今日は大腸カメラでした。いろいろ大変でしたが、全く異常はありませんでした。まあ、もう熱の原因は薬だとわかっているし。
もし異常があったら3万くらいお金がかかってしまうところ、5000円で済んだので、自分の大腸にご褒美ということで、ワンピース一着お買い上げ~!これは決めてたことだからね!衝動買いじゃないよ!2回見に行って、よくよく考えて、半額になったのを狙っていったからね!!

寒い日が続きますが、皆さま明日は日曜日ですよ~お休みですよ~私もやることがありません!家に一日こもって、熱が下がったら楽器練習しよう!

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