ひまわり畑を夢見るブログ

44歳の時、乳がんの診断。ステージ2。手術して抗がん剤とホルモン治療。仕事と治療の両立の生活記録を残します。

「カラマーゾフの兄弟」ドストエフスキー

大作です。昨日の夜読み終わりました。12月の終わりから読み始めて今日までかかりました。ほんと、私は読むのが遅いですね。


読み終わっての感想。
これは続編があるべきだ!
ここが始まりだ!
と、思いました。


話の筋は有名なので、割愛しますが、この本の中で、独立して別の本にしていい箇所が2か所あります。それはイワンの「大審問官」のところと、ゾシマ長老の一生です。これはそれぞれ物語から独立して楽しめます。前者は、無神論者にありがちな一種の理論なのですが、超展開というか、無神論者はこんな風に考えているのか、論理的には筋が通っているけれど、大変無理なことを考えているなあと。結局スメルジャコフはこの考えに洗脳され、イワンの言うところを正しいと思い、イワンの思うところを実行に移してしまうという、「その理論を実践するとこうなるんだよ」ということをやってしまったわけです。トンデモ理論に騙されてそれが正しいと思い込み、その理論のままに行動を実行する、ってありがちですが、この本の中ではそういう愚かな行動が、長男の悲劇を引き起こすのです。


ゾシマ長老はとても人間的で、いろいろなところで人間的に躓き、人間的に転び、人間的によからぬこともして、その一生は冒険であったと思われます。この人の一生だけで一編の小説になりそうなくらいのアドベンチャーです。これは古い時代のロシア人ではありません。普遍的な人間、正直でありたい、なかなかそうもいかない、そういう葛藤に悩まされ、それでも前を向いて歩いてきた人間の歴史です。私はこの小説の中でこのゾシマ長老がとても気に入っています。


この本の主人公は3人、カラマーゾフの兄弟です。中でも全編を通して主人公であったのは、末っ子のアレクセイ(アリョーシャ)です。彼は元は修道院にいました。ところが尊敬するゾシマ長老が亡くなり、還俗します。いつでも素直で正直で、人を欺いたり、自分を欺いたりもしない、誠実な青年として書かれています。これが、ドストエフスキーの作品の中で、最も「人間らしくない」と私は思うのです。そんなに正直で心のきれいな男がこの世に存在するでしょうか。兄の無罪を証明するために、多少なりとも無理をするところですが、アリョーシャは全く無理はしていません。事実だけを淡々と語り、事実以上の想像や憶測を語りません。本当にまっすぐな性格なのです。


少年たちのお話は、この小説でどんな役割があったでしょうか。いじめられた少年が、アリョーシャの指をかんだことから交流が始まり、なんだかんだいろいろあって、その少年が死んでしまうところで、この大きな物語は閉じます。その前に、長男ドミトリーの裁判があり、今のロシア、こうあるべきロシア、ロシア的精神が大いに語られ、検察側と弁護側の主張のどちらも大変すばらしかったし、これぞ裁判と思って聞いていたのですが、判決の理由は示されませんでした。そのあとに、少年たちの話が入っているのです。


ネタバレ的になりますが、アリョーシャの指をかんだ少年は死んでしまいます。それをほかの少年と、アリョーシャが埋葬するのです。私はこのシーンをどうして入れたのか、よくわかりませんでした。ですが、アリョーシャの言葉の中に、「きっとこの出来事を、彼のことを覚えておこう、みんなで仲良くして、みんなに愛されて亡くなった少年のことを覚えておこう」みたいなセリフがあって、これが、なにかの伏線になっていると思いました。だから、カラマーゾフの兄弟には続編があるはずなのです。この言葉は少年たちに言い聞かせるためにアリョーシャが発言したものですが、実はアリョーシャ自身に刻み付けている言葉だと思います。誠実で、正直で、心のきれいなアリョーシャを、自分で覚えていよう、たとえ何があっても、この時を覚えていよう、ということは、これから、彼は数々の困難に直面し、汚れた世界や、曲がった精神を経験するのだろうと思うのです。彼は古き良きロシアの良心なのだと思うのです。続編があるとしたら、その良心に困難を与え、処刑することで、古いロシアの良心から新しいロシアの再生を描いたのではないかと思うのです。


でも正直、こんなに長い作品で、登場人物も多くて、わかりにくくて、いろんなところにインパクトがありすぎて、さらに続編があったら私はあきらめてしまうかもしれません。何せ時間がかかった。人の名前が覚えられなかった。次に読むときは人物リストを作って、ドストエフスキーは性格付けがうまいので、性格も書いて、ちゃんと筋を正確にたどれるように読みたいです。


さて、また戻りますが、ラストのほう、裁判の結果ですが、理由はわかりませんが、兄ドミトリーは有罪になります。そこで兄の元婚約者と2番目の兄イワンは脱走を考えます。脱走してアメリカに逃亡する、これが何を意味するのか、ということも大事な問題ではないかと思います。彼は世俗の意見で有罪となりました。確たる証拠を持ってきた二人の弟の証拠は退けられたのです。兄ドミトリーもまた古い、プライドを持った正直なロシア貴族です。粗暴な性格なのに、自分のことは正直にしゃべります。彼らが、アメリカに行けるのだろうかと思っています。多分今後続編があったとしたら、脱走のことや、その後何とかしてアメリカに逃がすところが書かれたのだと思います。アメリカに行くということと、シベリアに流刑されることの間に、ドミトリーはあまり違いがないと言います。でも、アメリカに行ったら英語ペラペラになって、外国人としてロシアに戻ってきて、ロシアのどこか隅っこの方で農業でもして暮らす、ということも言っています。こういう思想は、貴族階級を捨てて、人間らしい生活をすることとつながるのかなと思ったりしました。アメリカに行くことは、自由の国へ行くことと思われがちですが、当時のロシアから見たらそういうわけではなく、未開の地という意味合いの方が大きいと思います。地面とつながった人間の生活というのが、ほかのドストエフスキーの作品にも出てくるので、共通する何かしらのテーマなのかと思っています。


今後の困難、特にアリョーシャの困難が想像される終わり方で、特に少年たちの中で一人とても賢い少年がいて、彼が何かやってくれるんじゃないかと期待していましたが、ドストエフスキーは続編を書くことなく、この作品を書いて数年後に亡くなってしまいます。もしもうちょっと長生きしていたら、続編ができたのかな…と思います。もしくはすでにあるのかもしれません。ドストエフスキーに詳しい方、ぜひ教えていただきたく思います。


次は何を読もうかな。ノンフィクションの何かを読みたいですね。日本文学か、西洋史か。何せ電車で片道1時間15分座っていけるので、読書し放題です。
まあ、読んでいない本がたくさんあるので(それも引っ越しでぐちゃぐちゃになってしまい、どこに何があるのかわからなくなってしまいました)、順番に片付けていこうかと思います。

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