ひまわり畑を夢見るブログ

44歳の時、乳がんの診断。ステージ2。手術して抗がん剤とホルモン治療。仕事と治療の両立の生活記録を残します。

「異端者たちの中世ヨーロッパ」小山内隆

すごく時間がかかりました。っていうか、読みにくい。なんじゃこりゃ。


不必要な横文字、当時の教会の在り方や、言葉の価値観の変遷とか、正直、どーでもいいことばっかりでした。
そもそも教会史、中世史を知っていないと、さっぱりわからないことだらけです。アルビジョワ十字軍、グレゴリウス改革、ポスト・グレゴリウス改革、このあたりのことを知っていないと、読むだけ時間の無駄です。私はほとんど知らなかったのでWikipediaを見つつ(そっちの方が勉強になった)かじりついてました。が、眠くて1ページ読んでは寝てしまうという…。そのくらい、私を惹きつけない本でした。


私たちが「異端者たちの中世ヨーロッパ」として知りたいことは、半分以下くらいしか書かれてませんね。ほかは、この著者の研究のわき道にそれたところばかりです。何かの言語の定義や原義や考え方ばかり、他者の論文の引用と最近の解釈の傾向など。
そもそも大事なことが書かれていない。
「異端」の歴史が、書かれていないのです。


ちゃんと読めば書かれているなとは思いますが、それは本の最後の章で、「今まで見てきたことを振り返るとこういう歴史になっている」的な書き方がされているのみ。
なので全然わからなくてさっぱりで、15回くらい中断しようと思ったほどでした。


さて内容に入っていきましょう。
今。「ベルセルク」をフランス語の先生の勧めで見ているのですが、ここには「邪教」という言葉ができてます。邪教と異端は全く違います(異教というのもあります)。キリスト教の異端は、あくまでキリスト教の教えを守りつつ、その布教の仕方がキリスト教で定められたものではないもののことをいったり、キリスト教の根底となる宗教体系を持ち込み、宗教界でのキリスト教の位置づけをし直そうとしたりする信者のことです。だから、キリスト教は信じているし、あのイエスがキリストであることは疑わないし、三位一体も疑わないし、朴訥な、素朴な信徒なんです。
邪教はそれに対して、例えばキリスト教から見たバアル信仰とかは邪教でしょう。ほかの神様をほかの方法で信じるわけです。


この本であげられているいくつかの異端をあげておきましょう。
中世以前には、キリスト教なんてまだまだちいさい集団で、各地でユダヤ教のいろんな宗派がいました。その中から中世にキリスト教がローマ帝国の国教になります。異端というのはこの本では「選び」とされています。キリスト教の定着とともに、聖書の解釈、教えの一律化、徹底した共通認識を作り上げていって、キリスト教は「これだ!」というものを作り上げて、一大学問分野になっていたのです。


異端として出てきたのは、有名なところはカタリ派。自分たちの教皇や司教を持ち、この世のものを追い求めず、何も所有しない、自分たちこそが本当のキリスト教徒である。というものである。南フランスから北イタリアに現れた集団で、二元論的教義を用いており、徹底した清貧・禁欲主義を貫いていたという。二元論だから、肉体=悪、精神=善というわけで、火刑に処されても、悪が消えていくということで皆喜んで火あぶりになったんだそうです。二元論者の救済とは、この悪しき物質=身体から解放され、再び純粋な霊的存在に戻り神の世界に帰ることなので、グノーシス的ではあると思います。でもグノーシスはとっくにいなくなり、その一派だったビザンツ帝国のボゴミール派の影響を受けたのではないかと思われています。
カタリ派の迫害は12世紀ころに盛んになり、異端審問にかけられ異端とされると、世俗の手に渡されます。ここ大事ね、いろいろ漫画とか見てると誤解しているけれど、教皇庁やカトリックは直接手を下しません。異端者には、具体的に死刑を宣告しません。カトリックではなく民衆を惑わすような死罪にあたることを世俗権力に伝え、その体を預けます。そうすると、自動的に、世俗権力つまり裁判所は、死刑にするわけです。刑も火刑です。
それに、異端審問が始まったのも13世紀ころ?で、それまでは、教会で判断して世俗権力が生死を決定するということでした。あと異端審問は魔女裁判とは直接的な関係はありません。魔女裁判を行っていたのは一般市民でした。


もう一歩横道にそれると、火刑に処されたものの残された炭とか体の一部なんかを、同じ異端の人間は拾いに来るんだそうです。それを奪い合って大切にするんだそうです。そのことを前に何かの本で読んでBlogに描いたんですが、忘れました…。何だったっけな…。


横道にそれましたがそれ以外に有名な異端は、ヴァルテスが始めたといわれるヴァルド派と呼ばれる人たちです。この人たちは、堅実に、聖書通りにキリストの教えを実践していたまじめな人たちなのですが、問題は、ラテン語の聖書を近しい人に訳してもらい、それを彼らなりの解釈で広めていったことです。キリスト教の解釈という学問があるくらいですから、キリストの一言一言にキリスト教的な統一見解がありますが、そういうのをまるっと無視して、訳してもらった聖書の教えを、その人たちの言葉で広めたのです。これが異端とみなされました。


もっとびっくりしたのは、フランチェスコ会。フランチェスコ会は今は立派な修道院ですが、その成り立ちも異端的と言っていいと思います。何も知らない純朴な青年フランチェスコが聖書の内容に目覚めて聖職者の道を歩むのですが、彼なりの解釈の聖書を、鳥にも説くのです。まあそれはいいのです。聖フランチェスコはちゃんと勉強して教皇に布教の許可をいただき修道会を作るに至りましたが、そのお仲間の一派が聖霊派と呼ばれ、急進的な活動をしていきます。彼らは清貧で「何も所有しない」聖フランチェスコとはちょっとちがって、同じ流れをくむのだけれど、「貧しき使用」ということを実践していて何事も最低限にしか使用しない、ということで徹底的に神のしもべたる清貧を実践しようとしていたらしいです。彼らが異端とされたのは、「何も持たない貧しき信者」であるべきキリスト教徒なのに教皇庁は金持ちで物持ちで豪華じゃないかという批判によるところがあったんだと思います。それで、キリスト教の大本山のほうが排斥し始めた、ということだそうです。


フランチェスコ会の支援団体のような人たちをぺガンと言い、この人たちが異端をかくまったり協力したり、同調したりしたことから、この人たちも異端審問にかけられ、世俗の手に渡されて処刑されています。


12~14世紀に起こったこれらの異端派と異端審問のおどろおどろしい戦いを、残念ながらこの本から綺想できませんでしたね。すごく学者的な本で、論文の参考文献にするならいい本だと思うのですが、当時のことを知りたい~異端審問ってなんだろう~という程度の、キリスト教の歴史から入らないとわからない人には向いていない本ですね。


さて、修道会による異端審問は異端がいる限りまだまだ続きます。上にあげた異端以外にも異端者はいました。ですが、それが火刑にならなくなったり正当に評価されるようになるのは、宗教改革を待ちます。


私の目から見たら、今のプロテスタントのキリスト教会の半分くらいは異端です。聖書を曲解して教えている。何とかの森は論外です。聖書解釈には長い歴史があり、論理があり、キリストの行動には解釈があるんです。それを曲げて教えているところは、カトリックのことを嫌います。私がカトリックだと言い始めて、離れていったプロテスタントの人もいるんです。迫害されるのがうれしいんですかね。


まあでも、私はべつにどっちでもいいと思うんです。究極のことを言ってしまうと、私が信じるキリストと神と全く同じことを信じている人は世の中に存在しないんです。プロテスタントに曲解は多いですが、それを信じて天の国に召されることを望んでいるならば、それはそれでいいんだと思います。


まあ宗教論になるとうるさくなるのでこの辺で。
ともかく読みにくい本でした。アマゾンでは★1つです。一通りキリスト教の歴史を勉強した人向き。三位一体がわかっている人向き、二元論とその変遷が分かっている人向き。あとくどくどした論が好きな人向き。あー疲れた…次はもっと楽な本を読みたいです。

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