ひまわり畑を夢見るブログ

44歳の時、乳がんの診断。ステージ2。手術して抗がん剤とホルモン治療。仕事と治療の両立の生活記録を残します。

アニメ三昧、読書三昧

読んだり見たりしてお正月が過ぎています。


人にすすめられて、昨年NHK放送の「アオアシ」見てます。見終わっていませんが、これは面白い。考えさせられることがいっぱいあります。高校サッカーのエリート校に入った愛媛県出身純真主人公の道みたいな感じでしょうか。24話。


その前に「鬼滅の刃・遊郭編」を見ましたが、これは切って切って切ってなので、ちょっと表現がいっぱいいっぱいというか、きつかったです。話の筋立てとか、見せるところはさすがだなと思って見ていました。迫力あるし、主人公たちが頑張って鬼を倒すところはちょっとすごいと思って感動してしまうのですが、全体的に切る描写が多くてきつかったです。一気見するとよく内容がわかるのですが、30分アニメを毎週だとわかりにくいかな…。


あきらめるな、あきらめるな、考えて考えて先にすすめ、そういうメッセージは感じ取れました。でも現実みんなあきらめてあきらめて考えないで前に進んでないですよね。そういう人にはこのアニメを正面でとらえるのは難しいだろうなと思っています。いや、私、あきらめたことないので、わからないんですが(あきらめたことがないというだけで世間からは嫉まれる今日この頃です、意味わからん)。


そんなんで、あと見ようと思って見ていないのはキングダムくらいでしょうか。
アニメ読書の正月です。平和な時も今日まで。明日から仕事です。出勤です。


無事に仕事に行けますように。

新年早々死にかけた話

大げさにすることじゃないですが、びっくり経験だったので書きます。


先日母が帰ってきてから、のどの奥の方、食道と気道の境目あたりが腫れているかただれているのか、後鼻漏が続いているのか、違和感でいっぱいでした。何でなのかわかりません。母がきて急に栄養を取ったからでしょうか。なんというか、こう、今にも気道がふさがりそうな、微妙な感覚で、気持ち悪いのです。仰向けに寝ても、横になっても、縦になっても、気道がふさがりそうで、気になっていました。


それが昨晩、腫れが大きくなったんです。夕飯のあとでした。気道がふさがり、呼吸がだんだん厳しくなってきました。一所懸命深呼吸して、立ち上がったりうろうろしたりして、何とかしようとしていたのですが、徐々に視界に帳が降りてきて、真っ暗に。ブラックアウトでした。同時に手足のしびれが出て、手足の先に酸素が運ばれていない状態になりました。そのうち手足の感覚がなくなりました。ああ死ぬってこういう事なんだと思ったのも一瞬で、頭にも酸素がいかなくなって、何か対処を取る間もなく、意識終了。


気が付いたときにはホットカーペットの上で倒れて苦しく呼吸をしておりました。


過呼吸でも視界真っ黒になりますが、その比ではないのです。感覚がなくなるのは初めてです。胸の締め付け感がなかったり、一瞬でブラックアウトしてしまったことも、全然過呼吸と違うなと思っています。


いやー。何時何があってもおかしくないですよね。怖い怖い。


何でしょう。気管支炎とも違うし、肺は全く苦しくないので肺炎ではないし、のどの奥の方、鏡では見えないところに、異物感がずっとあって、それが大きくなって気道をふさがれた感じがしていますが、それが正しい説明なのかわかりません。一日中異物感はありますが、見た目では何もわかりません。前に同様の症状が出たことがあり呼吸器科に行きましたが、何でもなかったのです。


ちょっと栄養状態を母が来る前に戻します。それで改善されなかったら病院ですかね。
取り合えず正月前にたくさん作った栗きんとんを食べてしまわないと。甘くしすぎて、砂糖で喉がひりひりします。栗が入っていたシロップを全部入れたんですが、甘すぎて…。

見て本を読む

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。


最近AmazonさんがうるさいくらいにAudibleの本を聴いて~って来るのですが、それには言いたいことがあります。


本は人に読んでもらうのではなく、自分で読みたいのです。どうでしょう。


音だけで作品を理解できるかということに関しては、いささか疑問に思うのです。音楽が聴いただけでは足りない(楽譜が重要!)というのと一緒です。


文学作品は、文字を視覚的に確認することが重要かと思います。ある音で聞こえてくる情報が、どの漢字で書かれているか、ひらがなか、カタカナか、ルビが振られているか、それは非常に重要な問題なのです。下手をしたら著者の主張がそこにそのまま表れているのです。


句読点がどこにあるか、どういう間の取り方で書かれているか、一番気になるのは、段落とか、文章のまとまり、行の変更がどこでなされているか、ということです。文字のまとまりで本を読む、こんな塊があって、その中ではこんなことを言っている、という風に出来事を重ねて頭の中で想像しています。読書方法のガイドとしても、最初に段落ごとに意味をつかむということは学校で習うと思いますし、効率的に読めると思います。改行をちらっと見てどのくらいとわかれば理解の助けになるのです。改行が全然ない文章は読みにくいです。


文章は呼吸法に似ています。ばーっと話して、呼吸する、みたいな間合いが必要です。全然改行がない文章はそれはそれで読ませる努力があるのでしょうけれど、改行がしっかりしている場合は、そこに意味があるのです。それに読みながら次の「息継ぎ」がどこに来るのか、あらかじめわかるので、そこまで一気に息をしないで(これは例えですが)読み続けたりします。この先ここで区切れる、ということが分かっていれば、そこで中断してほかのことをしていても、元に戻れます。


日本人歴が長い人はちゃんととらえていると思うけれど、漢字の何となくの陰影というか、ぼんやりそこにある文字をつかめる感覚はとても重要で、日本人の賢さの根源には、ぼんやりと漢字を認識する「画像処理能力」があるからだと私は常々思っております。ローマ字文化の国なら、単語のぼんやりとした影というか、印象で、意味を理解するのと一緒です。漢字のほうが複雑で構造的で、造形が意味と結びつきやすいので、印象付けはものすごくしやすいと思います。


テキストを読むことで、音も自動的に再生されるのが、読み書きができる人間の能力です。逆に、聴いた音からどんなふうに書かれていたかを想像することは、難しいと思います。それが出来たら天才的なことだと思いますが(そういう専門の訓練を受けているならば、可能と思います)、現状書かれているものの方が情報量が多いので、不可能と思います。それもそうですよね、読書の場合は視覚情報と一緒に音声が頭の中で再現されるので、広義でいえば視覚・聴覚の2つの情報を得ているのです。


もちろん音も大事ですよ。短歌や俳句、詩は音を大事にします。短歌や俳句は基本4拍子で、これは日本の民族が持っているリズム感覚に一致します(欧州、韓国は民族的に3拍子らしいです)。その中で、発音した時にきれいに聞こえるものになっているかというのは、それを鑑賞する人の楽しみになります。でも、それも、紙に書かれたものを自分で読んでみたほうがずっといいと思います。


というわけで、読む→視覚・聴覚情報、聴く→聴覚情報、ととらえられるので、読書の効率や内容の理解に関しては、聴くだけで理解するのは違うなと思っているのです。


素敵な文学作品が素敵な声で朗読されていたら、それはそれで面白いと思います。Audibleに意味がないとは思っていませんし、ぜひ音声はやってほしいと思いますが、私の場合利用の仕方としては、あらかじめ文字でその作品を読んでおいて、後で音で聞くという方がいいと思います。


興味はありますが、うーん。その時間がもったいないですね。自分でテクストを読めば自分のペースで読めますから。