ひまわり畑を夢見るブログ

44歳の時、乳がんの診断。ステージ2。手術して抗がん剤とホルモン治療。仕事と治療の両立の生活記録を残します。

6月の総括~~!!

下水工事負担金にご立腹で書くの忘れるところだった。


ちなみに、うちの畑は600坪くらいある。その一片の10メートルくらいが町道に接していて、その10メートルの接している部分に下水道が通るのですが、負担金は「お持ちの土地の面積に比例します」!!!!!!え!!!うち、ちょっと、ほんのちょっと、町道に接しているだけで、車の通れる道じゃないから絶対宅地にならないことが分かっているのに下水道通して公共ますつけろって???どういうこと???ちな100坪当たり20万の負担金になるそうです…マジ…?あまりに悲惨すぎて20万の6倍が計算できません…。
ちょっと役所に怒鳴り込んできます。


しかも承諾書は7月中。そんなんすぐ答えらえるか!!!


それはいいとして、とりあえず総括~~いきますか!!

  • 仕事:相変わらずやらない。相変わらずインフラ。相変わらず何かの設定。
  • 健康:最近太りだした。あと「ストレス球」+亜鉛不足が判明し治療中
  • 音楽:演奏会終わった!練習しすぎて演奏会後も1週間はスクリャービンしか弾けなくなってしまった…中毒性高いのでこれからは年に1回にしよう。コンサートグレード申し込み。シューマン=リスト「献呈」
  • フランス語:1回休んでしまいました。やっぱり普段から努力しないとなあ。
  • 読書:すごい面白い本を読んでいます。
  • 買い物:ワンピースとカーディガン。演奏会で着ました。酔った勢いでミュージカルのチケット取りました。ブロードウェイミュージカル!
  • その他:家の工事でいろいろ発見。ていうかうるさくてとても仕事にならない。
それでは夏も本番7月の目標!
  • 仕事:やる
  • 健康:痩せる
  • 音楽:ふふふ、スクリャービンに比べたらラフマニノフなんてお子様用ですか。
  • フランス語:何かやろう。
  • 読書:本たくさん買ってあるから読まないと。
  • その他:家の工事を見守ります。棟上げが12日。その前に融資開始。

とりあえず何より役所の水道課にいって交渉だ!!
とりあえず明日一階の大掃除だ!!埃、木くず、もうほんといや!!


素敵な7月になりますように。

静かに仕事~できへんわ!

2階の補強が終わったので、静かに仕事~。
今日は雨なので、瓦屋さんが来なかったですが、瓦に家紋を入れるので、家紋の図鑑みたいなのを持ってきてくれました。

いろは引きなんだ…。
似たようなのいろいろあるのよね。
ものによってはその家しか使ってはいけないものも入っているけれど、そもそも各家に家紋が入るようになったのは江戸時代、うちは通紋を使っているけれど、おじいちゃんは別の下賜された紋章を使ってましたね。サーベルに彫ってあったり、その紋が入った銀時計とかも軍隊時代にもらっているんですけど、結局はうちに養子に来たから、私が使うんだったらおばあちゃんの方から伝わる紋なんだろうな。


でも同じようなのがいっぱいあるから、明日、自転車でお墓に行ってお墓の写真撮ってこようと思います。


そんなんで仕事しようと思っても午前中は眠くて、午後は会議の準備でなかなかできなくて。


EUと会議、終わって6時になって急いで夕飯作って食べて、7時から町内会の集まりというか説明会があるから母が言ってくれと言っていたので、行くことに。


「畑がなんだか、っていう話できたんですけど」と母からあいまいにしか聞いていなかったんですが、何の話かと思ったら、畑のある土地に下水道を通すので、公共ますをせっちするのと、下水道の設置費用の負担の説明会でした。


結構紛糾してましたね。30年くらい前に、そのあたりの土地に環状線が通るっていう話が県からあったらしくて、町が下水道を今通してどうするんだ!って言われて、町の職員はぽっかーん。そうですよね、県の計画で、県の説明会で、「環状線が通りますからこの辺りは家を建てても保証できません」て言われてたところに、強制的に下水道を通す話が町から来て、かなりの負担金になるのに、また道路が通ったら引っ越さないといけないって。


ひでえはなしよ。


うちなんて、車道が接してない畑だから、住宅地になる可能性がないのに、公共ますをせっちし、畑の広さに応じて負担金を払えって。文句言ってやりました。


あらためて後日町の水道課に行って話してきます。うちの畑は法的には絶対に住宅地にならないのに下水を負担させるのはおかしいと。しかも、広さに応じてって。道に接しているのほんの10メートルくらいよ???なのに登記上3筆あるから3つつけないといけないのってどういうこと??


今の私の家も、下水道を通すときに、家が広いのですごくお金を払って、公共ますを2地点つけてもらいました。一般的にはうちの敷地は大体4分割くらいにして売れるらしいですが、結局一つは使わないままですね。


ともかく。住宅地になる可能性のない畑に下水負担金を、しかもその敷地の広さで払うっていうのはいただけない。


あしたは工事の人は来ないので、たくさん練習しよう。
今日は練習できなかった。


ということで、続きはコメントへ。

やっと2階の床を補強してもらえた

今日は在宅だ~。
8時半には職人さんたち来るから、7時には起きてご飯とごみ捨て。
8時半くらいから仕事を始めていて、屋根屋さんはいつも挨拶に来てくださる。2階の柱作っている人たちは挨拶なしで入っていって。


まあ、今日も暑いけど頑張ってね!な感じでおりました。


どごん!どごん!ばりばりばりばり!ドゴン!
こんな音が、お昼から夕方まで…いや、うちの2階の床板って、床板一枚で1階なのよ…だからめっちゃ響く。
うちを壊す気か??
何度か見に行きそうになりましたが、職人さんたちと、この家を信じて、頑張ってもらいましょう。


今まで2階での作業中に1階に木くずやほこりが落ちてきて家の中が大変なことになっていたのでその処置なんですが…。


午後終わったので、見に行ったら、その床板がもうかなりダメらしくて、敷きなおししたほうがいいと。大工さんたちが、何度か床を踏み破ってると。
杉の板で良いから処置がしたいけれど、これは工賃に入っていないので、そして2階は広大なので、うん千万の改築費とは別になりますね。何百万かかるか。


今日は屋根に上らせていただきました。
これは屋根の尾根?一番上だけまだ張ってないところがあって、でもほぼ張り終わっていて。完璧ですね。

この手すりみたいなのが屋根の合わさるところ。ここは別の瓦を載せるので開けてあります。
今の瓦は、ねじで止めるんだそうです。昔の瓦は紐みたいなのでつながってましたね。
こっちは、越屋根ですが、ここに屋根を付ける日は何とかの日(棟上げ?)っていうんですけど、なんかしないといけないかな?


鬼瓦は、屋号が入ったものは越屋根につけてくれるそうで(古い屋根瓦ね)、新しい鬼瓦は家の屋根につけてくれるそうで(かなりでかい!!)、家紋を入れてくれるとのこと。
うちの家紋、2枚鷹の羽なんですが、屋根屋さんは「2枚鷹の羽ってもいっぱいあるんだよ」って言われて、うーん。私の写真の中に、お墓の写真があったら、それ見せるんですが、残念ながら横からの写真しかなくて確認できなかったです。屋根屋さんが家紋帖を持ってきてくれるそうですから、明日のお昼休み、ちゃっちゃっと自転車でお墓に行って家紋を取ってきますかね。


仕事に戻り。ともかくうるさかったので私の作業は全然進まず。上司になんと報告しよう。
あと2階で作業していた人たちが、曽祖父と、祖父の、名前と住所の入った木の板を見つけてくれました。なんといったか、多分、ものを送るとき、郵便とか、宅急便?その時に用いた木の札ではないかとのことです。


ちなみに祖父の名前は私の姓と違っていて、住所も川崎市南幸町。東芝川崎勤務だったので、その時のものかな。父がいたら見てくれたんだろうけれど、父はもういないからねえ…。叔父さん一人生き残ってるから、知ってるかな??


住所検索したら今もありましたが商業施設になっている模様。


私の祖父は、埼玉の田舎の三男坊で、口減らしのために子供の頃から海軍学校に入り、横須賀で勤務していた軍人です。子供の頃はいろんな軍艦に乗って、通信で受信したことを新聞に書いて、新聞小僧とかわいがられたそうです。その話を聞いたときは私はあまり興味がなかったので聞かなかったですが、いまだったら、なんという軍艦に乗ったのか事細かに知りたいです。海軍での最後の地位は大尉。鎮守府と日吉台(現在の慶応日吉キャンパス)勤めだったので、本当の第二次大戦の最後まで、若者を船に乗せ、飛行機に乗せ、特攻隊が最後に通信が取れなくなるところまで通信技師として見送った、なんとも悲しい歴史をたどった人です。祖父はこのことは言わなかったけれど、祖父の葬式に来ていた人がなんだかそんなことを言っていたので、言いたくなかったんでしょうね。
戦争が終わってから、東芝に就職し川崎に移り住んだんだと思います。でも祖母とは結婚していたから、戦中は祖母も私の父も叔父も埼玉にいたはずで、単身赴任だったのかな?
その後、私の家の養子に入ることになりますが、占領軍開放時に、この家の持ち主だった曽祖父は、家や土地や山などの権利を、祖父ではなく私の父に生前贈与しました。


その時にいろいろあってね!!今でもトラブルになっているんだけど!!持ってる土地が多いといろいろあるんですよ。


祖父はとても温和な人で人に慕われましたが、厳しいところもあって、お転婆が過ぎた私と私の一つ違いのいとこはよくしかられてました。山の管理もよくやってくれて、時々木を切ってきて、餅つき用の杵ばっかり作ってたので、蔵には杵ばっかりあります。子供の頃はお正月はお餅つきをやってくれてました。体の弱かった父はできなかったんですが。

祖父が亡くなってから、いろいろ遺品が出てきました。海軍マントとかすごくあったかくて、かっこいい飾りがついていて、勲章や抜けないサーベルなんかもありましたね。みんな盗まれちゃったか、祖母が売り払ってしまったか。一緒に満州に行った行李は私が再利用しています。

おじいちゃん出てきてくれてありがとう。

続きはコメントへ。