ひまわり畑を夢見るブログ

44歳の時、乳がんの診断。ステージ2。手術して抗がん剤とホルモン治療。仕事と治療の両立の生活記録を残します。

「夕あり朝あり」三浦綾子

この人も鉄砲玉人生だなあ…。と思いました。
白洋舎クリーニングの創始者五十嵐健治の、独白形式の「伝記」です。


まだ生後8か月のころに母親が離縁され、養子に出され、そこで貧しく育ち、中学校へあげてもらえず奉公に出て、大金を掴む大志を抱いて東京へ出奔、東京へはそのまま行けず名古屋や長野などで働きながら各地を転々とします。お金がないから、宿に泊まって、そのまま宿の手伝いとして住み込みで働いたりもしました。儲け話についていって裏切られ、人質同然の扱いを受けていたこともあります。
で。やっと東京に出て今度はまだ20にもなっていないのに日清戦争の軍夫(雑用係みたいなもの)に志願、何とか通って戦地に赴きます。帰ってきてから、仲間と結託してロシアのスパイになろうと北海道に渡ります。が、なんだかんだで開拓団の監獄生活を送ることになります。監獄と言っても何か罪を犯してつかまったのではなく、一定の金額をもらえる代わりに開拓に従事するというものです。ひどいものです。
そこから脱走、事情のある小樽の旅館のお手伝いに納まり、そこで聖書に出会います。キリスト教には、それ以前の出奔の際にも接していたのですが、その時は特別何とも思わなかった主人公が、ここで、本当に出会うのです。


とんとんと、聖書の話をきき、キリスト教に接し、そこで洗礼を受けてしまいます。


それからまた職がなくてふらふらしているところを、洗濯屋を紹介されそこで働くことになります。洗濯の経験を積んで、東京に帰りたくなり、東京へ行きます。そこでは、洗礼を授けてくれた人の口利きがあり、同信者によくしてもらいます。まあ、当時のキリスト者はマイノリティでしたから、同胞意識が強かったんでしょうかね、こういう人が行くから、親切にしてやってくれ、ということがあったのだそうです。
東京でも洗濯屋で働くことになりました。これは宮内省に出入りできるような仕事で、この時から主人公は腰を落ち着けて一所懸命働くようになります。宮内省では御用聞きなので待ち時間がある、その間に中学校の勉強をします。その後、勤め先の事情で三井呉服店に勤めることになります。もうこの時点でも、大出世だと私は思っているのですが、ここでも宮内省の担当になり、待ち時間の3時間ほどは勉強ができたそうです。
それから三越に移り、彼はそれでも30歳で独立するつもりでいました。30歳といえば、イエスが伝道を始めた年です。主人公もそのくらいになったら、伝道をしたいと思っていたのです。伝道の旅はできなくとも、仕事をしつつ、福音を伝えることをしたい。
「自分のような風来坊であった者が、生まれ変わった気持ちになって毎日をかくも喜んで生きている。その喜びのみなもとであるキリストの神を人々に語りたかった」のだそうです。


で。家族もいたのですが、独立します。何をしようかと思ったときに、キリストの御言葉を宣べ伝えることができる時間を生み出せる仕事で、みんながやりたいと思う仕事よりは、むしろ遠ざけるような仕事をしてみようと思ったそうで、それ以外にもいろいろ条件が重なり、洗濯屋を始めることにしました。


いいところのお客様から、西洋では、ドライクリーニングというのがあるということを知らされ、その後、大学の先生などの力を借りて、揮発性の材料を作ってドライクリーニングを完成させていきます。最初は失敗だらけ、ですが、ある時ふと目に留まったガラスの向こうのベンゼンで先が開けます。ここに日本初の、日本独自のドライクリーニングが出来上がります。
でもそのまま順風満帆であったわけではありません。爆発事故を起こして9か月も治療にかかったり、関東大震災、東京大空襲があったり、従業員の謀反にあったり、皇室からお預かりしたものをダメにしてしまったり。
そのたびに、主人公は、神に祈りました。
祈れば助けてくれる、というわけではありません。でも、神様なら答えを教えてくれるのではないかという一心で祈ったのです。そうすると不思議と活路が開けてくるんですね。
結果的に、白洋舎は日本を代表するクリーニング店になり、主人公は、教会を建てたり伝道のできる時間を得ていたのです。


まあでも何よりも、一所懸命仕事した、ということが、この主人公の成功の秘訣なのではないかと、思ってしまいます。若気の至りで出奔し、若気の至りで軍夫になり、若気の至りでスパイになろうとしたり、いろいろありましたが、キリスト教に出会って、祈ることで、世間からは責められても、お金がなくとも、神は見てくださっている、ということを心に刻んでやってこれたんだと思います。


ところでこの本には、「神父」が出てきません。そして、洗礼を受けるところもあっさりと書かれていて、あとは困難にぶち当たった時に「神様を信じる」とあるばかりで、信仰の奥深さについてほとんど触れられていません。一見して、プロテスタントの勧誘のための本、とみなせないでもないかなと、私には思えてしまうのです。そのくらい、信仰の本質からはずっと外れた物語なのです。まあ、書こうとしていたことが、五十嵐健治の生涯なので、信仰や、キリスト教について、あれこれ書くのはおかしいかもしれませんが、これを読んだ人が、「キリスト者になれば、困った時も何とかなるぞ!」と思ってしまわないか、私はそれが心配です。それと、戦時中に、キリスト教徒であることでなめたはずの苦労がほとんど書かれていません。それもちょっと気になりました。もちろん、平沼内務大臣が「教会に神社のお札を張る」のではないかというさわぎがあったことは書かれていましたが、それに対しても、キリスト者側からの反発というか、どうしたものかということについて、根が深くない感じがします。


私はある種のプロテスタントが苦手で、というのは、カトリックよりも戒律(というのか?決まりですかね)が厳しく、聖書にのっとった行動のみを是とし、例外を認めない厳しさがあります。カトリックのほうが緩いです。例外を認め、ユダヤ教やイスラム教、仏教とも分かり合おうとしています。プロテスタントは自分たちの信じるものが一番だと思っている節があります。カトリックはそうは思っていません。神様は一つ。見ている方角が違うだけだと思っています。多神教は、神様のいろんな面が独自の神格を持ってしまっているから多神教なだけで、結局神様は一つなんだと、思っています。そのくらい、緩いというか、包括的な考え方をしているのがカトリックだと思っています。
プロテスタントはまた違う。全然違うのです。カトリックとプロテスタントの違いは、同じイエスと一神教を信じていながら、別の宗教と言えるくらい違うのです。
この本からはプロテスタントのにおいがぷんぷんするので、今まで私が読んできたキリスト教関連の本とは大きく違っているなと思いました。


何かあると聖書に立ち返る、それはいい姿勢だと思いますが、とてもプロテスタント的です。よく、宗教は「思考停止」だと言われます。私もそう思っています。でも私は決して思考を停止しません。何か起こった時、これは神の御業である、というのは思考停止です。そこに神様のどのような意思が働き、私に何を知ってほしいのか、私がすべきことは何なのか、突き詰めて考えれば私とは何なのか、そこまで考えるのが、本来の信仰ではないかと私は思ってます。これは歴史的に様々な矛盾に説明をつけてきたカトリックの得意とするところだと思います。聖書至上主義のプロテスタントは、思考停止を一番いいこととします。神を疑ってはいけないのです。もちろんカトリックもそうですが、神のメッセージを正しく読み解くことこそが信仰なのであって、聖書に書いてあることを信じること、聖書に書いてあることを実行することが信仰なのではないのです。


というわけで、凄く期待して読んで大変面白い本だったのですが、プロテスタント臭がしたのがちょっと気になりました。


最初の方は、鉄砲玉人生の、羅列のような感じで、なかなか面白くならないなあという感じです。同じ鉄砲玉だったらセリーヌのほうがいろいろ考えていて、考えていなくて、とっぴで面白かった。この本は途中から面白くなりましたね、母のこと、父のこと、クリーニング屋に降りかかる災難、大正・昭和の歴史がバックグラウンドとして出てくるあたりからぐっと引き込まれます。480ページの長い本なんですが、その半分を、一日で読んでしまいました。普段からこの集中力で本を読めたら、本の山なんか作らないで済むのですが、最近は寝る前に読書する習慣が無くなってしまって。


次は何を読もうかな。本命、スキタイに行きますかね。

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